以下、嫌な人がいそうなので続き記法。

 隔離〜。不快になりたくなかったら見ないでください。50人中49人が不快に思って、残り1人が通報ような内容です。
 あ〜、何人くらい残ってるか分かりませんが、昔から見ている人に分かるように言うと、反転で書いてたような事です。アンテナで見えたらいけないので続き記法も使っときます。
 一応反転しておきます。
 でもまあ、明日いきなり死なないかなぁとか、考えんでもない。死んだ方がいいのは間違いないんだよなぁ。なにせいろいろあって死に対してタブーが無くなってるから。こういうのはわりと簡単に人を殺しちゃうんだよなぁ。ちょっと解説しましょうか。
 今年の春頃だったか? ビルから子供を投げ落としたやつがいましたけれど、あれも死のタブーが無いタイプだと感じました。あれはなんであんなことしたかというのは、本人もあんまり「なんで」って無いんじゃないかなぁ、と。普通に考えればあれは「なんで」、つまり理由があるという方向に行くと思いますけれど、あれにはそういうのがないんですね。喩えて言えば暗くなって灯りのスイッチを押すのに、「暗くなったから」以外の理由がいるでしょうか、って事になりましょう。落としたいと思ったから落としたんですよ、あれは。
 これは普通の場合、「落とす→死ぬ」でアラートが鳴るんでやったりはしないんですが、あの犯人の場合は「落とす」の先の「死ぬ」がマヒしてて、アラート鳴らないんです。なんでか、って言えばあの犯人は自殺未遂してて、どうもその辺で自分の「死ぬ」のアラートが鳴らなくなってしまったんではないかと。で、そのまま「死ぬ」というのにタブーがなくなってしまったと。
 単に、っていうのも変ですけれど、単なる自殺未遂ならそこまでアラート機能が壊れる事は少ないと思うんですけれど、あの犯人、その方法にコードで自分の首を絞めるってのをやったというんですよ。はっきりいいますが、そんなことして死ぬわけありません。首吊りなら死ぬでしょうが、自分で絞めたら途中で力抜けて死ぬわけありませんよ。だから、死ぬ方法としてあまりにバカらしくて死にたい状態でも、まずやりません。
 でも、やった。
 はい、ここが問題です。「死ぬ」わけがない方法で死のうとする。これが何故おかしい状態か。
 実際の所、自殺しようとする時というのは死の決定的瞬間及びそこへ至るまでにある様々な苦痛に対して考える事を放棄します。また、死は全くの未知なので考えようがないんですけれど、本能的なのか直接的に死ぬのは恐怖はあるので、間接的な死に方をします。
 そう。世に言われる自殺というのは基本的に間接的な死に方なんです。飛び降り自殺は「高い所から飛ぶ」、轢死は「電車あるいはトラックなどにぶつかるように飛び出す」、首吊りも「紐に首を通す」、失血死を狙う場合も心臓とかを狙わずに「手首を切る→水につける」という方法になりますし、溺死を選ぶ場合も高い所から飛び降りる、あるいはおもしをつけて“間接的に”溺れるようにします。その行為自体は、いずれ死ぬにしても“その”瞬間は死にません。
 ですが「自分から絞める」という行為は、実際は死ねないとしても「直接的な死に方」です。そういう事が出来ると言う事は、もう既に「死ぬ」に対して本能的なアラートが出てないという事になります。
 「死」に対してのアラートが壊れているがゆえに、人を簡単に投げ捨てる事が出来てしまうのです。
 で、なんでこんな事を思ったかと言うと、自分もこの例に当てはまるんです。
 自分も死のうとして自分の手で首絞めたありますけれど、もう普通の人から見たら異常だろうな、と思って絞めながら笑いましたが、当然死ねませんでした。
 で、そこから自害他害に対するタブーが確実に少なくなったのを実感しております。その上、去年一年いろいろあって、「葉隠」みたいに常に死に対して考え続けたせいで、なにに対してもいきなり執着をなくす事が出来るようになってしまい、今に至っております。
 それで、あの犯人は未来の自分かなぁ、と思って、人を殺すぐらいなら死ね、と思うんです。でも積極的に死ぬのも面倒だし、流れで死ねばいいな、位で生きております。だから明日死なないかなぁ。
 余談。隆慶一郎的「死人」思想は、最低限「なにか守る部分」がある事によって成り立っていたり。じゃないと単なるキ印になってしまうのでした。