「“教養”と“ライトノベル”」

さてさて。
この世には「教養」される書物が存在し、それと対比して、ある書物Aの出来不出来が語られる事が往々にしてあります。 これは、「教養書」というものを一種の基軸として互い(この場合は主にエリートの)のコミュニケーションの円滑化を図る、というのを第一義として明治後期から昭和にかけて行われてきた事であり、それなりの歴史を持っています。ベン、ベン。
ですが、昨今において「教養書」の立場から、たとえば「ライトノベル」というレッテル貼りをされても、なにやら変な所に貼り付けられて、当の「ライトノベル」とはまるで地軸が違う事が多いと感じます。 なぜか。 「教養」という概念が失われたからでしょうか? いやしかし、それがまだそこにあるという事は、場合によっては正しく機能する事例もあること*1から見て、まず間違いないでしょう。 ベン。
ではなぜ、「教養書」という軸で「ライトノベル」が上手く捕らえられないのか。べ、ベン、ベン。
これは、別の軸が存在するからに他なりません。「教養書」以外の軸、たとえば「漫画」であったり「音楽」であったり、はたまた「ゲーム」であったり「アニメ」であったり。 さまざまな物が既に「教養書」のような軸となって絡み合い、混じり合っているのです。 ゆえに、「ライトノベル」のような物件には「教養書」単体では捕らえきれなくなってきている。 つまりは現在は「教養の多様化」の流れをたどっていると言えるのであります。 あ、ベン、ベン。
あ、さて、話ここですこぶる変わります。
ライトノベル」における「教養」、この場合で言うなら「必読本」というものは存在するのでしょうか? あ、ベン、ベン。
これはすこぶる難儀な玉虫色の見解になるのですが、「存在する場合としない場合がある」のです。 ベン、ベン。
趣味として、ただ読むにおいては「必読書」と言う考え方は存在しえません。 当たるを幸いに読みまくるだけの事であります。 これに順序や必須項目などは全く不要、むしろ読みたいものが読めないのでは害悪とすらいえましょう。 時間も無限ではありませんから、好きな本を好きなように読むが当然。 べ、ベン。
では「存在する」のはどういう時か? ベン、ベン。
それは上記の「教養書」について触れた所に出ています。 「一種の基軸として互いのコミュニケーションの円滑化を図る」のに「必読書」という考え方が浮上してくるのです。 べ、ベン、ベン。
これは全く違った本を読んでいる同士である本Aの評価を語り合うと、意見の相違や相似がたくさん出てきて話がまとまりません。*2 そこで、自分と同じ「必読書」を読んだもの同士で意見をすり合わせ、すり合わせ、すり合わせ続けることで「一定の見解」としての軸を生み出すのです。 ベン。
ゆえに、「必読書は存在する時としない時がある」という結論に至るわけであります。 べ、べ、ベン、ベン。
さてさてさてさて。 また少し毛色が変わりますが。
なら、今必要な「ライトノベルの必読書」ってどういうものになるのでありましょう? これは主に時間が解決する物なので個人で考えてもどうしようもない面がありますが、私としては「神坂一」、「冴木忍」、「水野良」、「深沢美潮」辺りが基本となるのではないかと思います。 実際にどうなるかは必要となった時期に判明するでしょう。 ベン、ベン。
では長くなり――そして予定と全然違う話になり――ましたが、ここで幕とさせていただきます。
ベ、ベン、ベンベン、ベン、ベン、・・・ベ、ベン。

*1:道徳教育が全く機能しないわけではない。

*2:個人的にはそれはそれで楽しいと思いますが