「究極超人あ〜る」と「げんしけん」の決定的差異

前々から突っ込みどころの多い話題だとは思っていましたけれども乙木の記さんのこれみて少しまとまった形で違和感の正体が見えてきました。
それは根本的に「あ〜る」と「げんしけん」が別の位相にあるのに一緒くたにされているという事ではないかと。 「あ〜る」のオタクネタは細かい特撮ネタなわけですけれども、それを隅々にちまちま乗せているというのが「あ〜る」の時代の特色なわけであります。
それとここが一番重要なのですが「究極超人あ〜る」は「オタクの話」じゃないんですよね。 オタクネタが隅にでてくる以上のものではないんです。
ひるがえりまして、「げんしけん」です。
これは確実完全大保障付で「オタクの話」が中心なわけです。 オタクネタはすでに隅ではなく中央で語られるのです。 この差は天と地、月とすっぽんであります。
この差が全く無視されて話される背景は、おそらく「はみ出し者の空間」としての「光画研」と「げんしけん」の対比としてみらているからです。 しかし、ここにはすさまじい差がある。
平野耕太の漫画から引用するなら、

あんな屈託無くいれたか? ああも堂々とお天道様と世間様の前をおたくのまま歩けたか?

であります。
「光画研」は曲がりなりにも写真部の一変形、文系青春のひとつの形でした。 しかしおたくではなかった。 「光画研」はおたくで無い状態で堂々と青春をしていた。 おたくネタは紛れ込んでいますが、それは「お天道様と世間様」から身を隠すようにひっそりとでした。
そして「げんしけん」はまちがいなく「屈託無く」いるおたくであります。 この差は大きい。 本当ならこの間に「屈託無く」入れれなかったおたくが入ってこなくてはならないのに、その過程をすっ飛ばしてしまっている。 ゆえに、「あ〜る」と「げんしけん」の比較というのには違和感が付いて回って上手く話がまとまらないのです。
このミッシングリンクを上手く埋めない限りは「我々の意見は永遠に平行線だな」という事になると思います。
ああ、世代の話はまたいつか気が向いたら書いてみようと思います。