唐突に思いついたが既出かもしれない
あるいは、自分で妄言した気もする。でも、今の自分で考えて書くことがこの場所の意義なので、あえてぐぐらず、カカッと書いてしまいます。
前置きはさておき。
格ゲーはキャラゲーです。
これに異論を持つ人はいますでしょうか。
異論とは言わずとも、キャラゲーと聞くと一瞬身構える人もいるでしょう。でも、まずは力を抜いてください。何も昔のキャラゲーの十把一絡げと同じようだとか、そういうことを言う訳ではないのです。一部は絡んできますが。
ここでは格ゲーというのは、キャラクターがいないといけないゲームだから、キャラゲーだ、という理路を語っていこうかとしているのです。
そしてキャラがあるから、格ゲーは伸長した。そういう話です。
さておき、それではいってみましょう。
格ゲーの肝はバリエーションである
格ゲーはキャラゲーです。そのキャラクターがあり、どう動くかという理路があり、それが動かす側にちゃんとこのキャラらしいと伝わるように出来ている、という意味合いでキャラゲー呼びをここではします。
格ゲーにおいてキャラクター、あるいはキャラクター性というのは結構原初からあるものです。
若干格ゲーとは違うと取る人もいると思いますが、それでも一つの潮流としてはコナミの『イー・アル・カンフー』くらいまで、キャラクター性のある格闘ゲームは遡れます。『イー・アル・カンフー』は対人戦こそ出来ないものの、その点を除けば現代の格ゲーの要素はしっかり入っている作品です。攻撃の種類と使い分け、技の間合い、ガードはないけどどう回避しつつ攻撃するか。そういう駆け引きがある。
そしてキャラクター。この『イー・アル・カンフー』の段階で、自キャラ以外ですが敵キャラはかなりの数がいて、それぞれに攻撃方法が違います。
この違いがキャラクター性を生みます。それもグラフィックだけではなく、どう動くかという部分でも、キャラクター性が出る。
格ゲーが今も存在しているのは、それが当然面白いからですが、その面白さの担保は、キャラクターの動きの違いに寄っているのではないか、というのがここでの主張なのです。
色々行動が違うキャラがいるから、その違いでキャラを楽しめるし、対戦においてもやり方を変えていかないといけないくらいに違うからこそ、毎回同じ展開にならない。
たとえばリュウ対リュウでは、お互いすることが同じだから、最終的には同じことをお互いがするだけです。しかし、リュウと違うキャラがいれば、リュウ側の動きも同キャラ戦とは変わってきます。それが、様々なキャラに対してあれば、遊びの幅、あるいは攻略の幅が変わってきます。
そういう意味では動きの違い、差があることは格ゲーにおける面白さの担保である、ということができます。だからこそ、キャラクターの違い、性能の違いのバリエーションは重要なのです。
バリエーションの例としての『ファイナルファイト』
動きの違い、差があるのが面白さにつながる。
この辺が良く分るのは、あえて格ゲー以外で考えるとベルトスクロールアクションの金字塔である、カプコンの『ファイナルファイト』でしょう。
『ファイナルファイト』がベルトスクロールゲームの金字塔なのは、出来がいい点はモチのロンですが、味方も敵も、バリエーションが幅広い点にも理由があります。
まずプレイヤーが動かす自キャラの3人、ガイ、コーディー、ハガー*1。この段階から見た目のみならず動きや性能が違う。移動速度から基本のラッシュの回数、コーディーだけナイフを投げずに使えるなど、性能差、つまりキャラクター性がある。
似たようなアクションシリーズでも、この頃までは動かせる自キャラは一種類がほとんど。ですが『ファイナルファイト』なら3キャラが個々で違う。この自キャラが個性豊かになるのは、その後のベルトスクロール系ではデフォルトになっていくレベルの要素であり白眉レベルのことです。
しかし、『ファイナルファイト』はそれだけに留まりません。自キャラのみならず、敵も多種多様なのです。
『ファイナルファイト』の敵にも色々な行動パターン、つまり個性があります。雑魚敵でも、ただ殴ってくるのからジャンプや突進、ガードしたりナイフ使ってきたり。果ては火炎瓶投げてくるのまでいて、その動きは多岐にわたります。
ボスなら更に何種類かの行動をしてきます。タックルだったり掴みかかってきたり、雑魚を呼んだり手榴弾を投げてきたり。
このように様々な攻撃があるので、単純に殴ってれば勝てる、というものではありません。あるいは雑魚であっても、普段ならそれほどでもないけど色んな種類の中にあるとむしろ逆に手ごわくなる。この辺も、遊びとして、あるいは攻略に対しての面白さに寄与しているところです、
そしてそれゆえに、色々な動きをするボスはもちろん、雑魚敵にすらキャラクター性を感じるのです。
バリエーションというのは、ときにそういうものを見せる、ということでしょう。
だからこそ、格ゲーにおいてバリエーション、キャラクター性があるのは、ただのリュウ対リュウだけでは見れないものが見せる、と言えるのです。
キャラクター格ゲーの源泉『ストリートファイター2』
『ストリートファイター2』(以後スト2)は現代格ゲーの礎として未来永劫、本当の意味で未来永劫語り継ぎたいゲームです。そしてキャラ格ゲーとしてもやはり原点であると語り継ぎたい。
そのキャラクター性、あるいはバリエーションは以後の他の格ゲーにも常に影響を及ぼすレベルとなっています。
所謂弾・無敵対空・突進技の三種の神器持ちとか、タメ待ちキャラとか、投げキャラとか、リーチが極端に長いキャラとか。
これらは現在の格ゲーでも常にアトモスフィアを変えつつも入っている、よく言うと当たり前の要素になりました。
スト2の段階でその方向性が確立して未だその延長線のキャラ生まれる辺り、スト2の偉大さは尋常じゃないと言えるでしょう。
というか、スト2のキャラクターは今では積み重ねがあるので違和を感じませんが、よくよく考えなくても<地面と平行飛行する技を持つ隈取りフェイスの力士、エドモンド本田>の段階で初見では異様なゲームであるのは論を俟ちません。
個人的なことですが、エドモンド本田のスーパー頭突きの写真を見たときの衝撃は忘れられません。先に異様の例として挙げたように、変なとこの筆頭だと思ってます。だって力士が地面と平行ですよ? おかしいですよ。
個人の話はさておき、本田、ブランカ、ダルシムはスト2初見衝撃度では三指のになるレベルで、そんな突き抜けたキャラが自分で扱える、という点が、スト2の面白さの一端と言っても差し支えることはないです。しかも、6ボタンで1ボタンごとに動きが違い、更に必殺技もあるぞ! となればその自由度にのめされるのも必定だった、といえます。
それくらい、スト2のキャラクター性は際立っていました。良いも悪いもですが。
キャラ操作の自由度の話
さておき。
スト2の動きに対して自由度が高い、といわれてピンとこないかたもおられるでしょう。今の時代では、格ゲーの自由度以上で動けるゲームは沢山ありますから、それも当然。
しかし、スト2当時で考えると、この自由度は画期的でした。大体は『ストリートファイター』から継続した流れなものの、その再発展版としてのスト2はキャラクターを思い通りに動かす、という点では出色の出来です。
前後ろで歩き、上で跳び、下でしゃがむ。そのどこからでも6種類の技が出る。必殺技も、下から前へとか、下に溜めて上に解放とか、改めて見れば理路がみえてくる仕様。それを好きな時に出していい。
そういう意味では、自分が扱っているという自覚が強く表れる程の自由さだったのです。
これは逆に言うとそれまでのゲームの自由度は限定的だった、とも言えます。今でこそ自在に飛んだり跳ねたり攻撃したり回避したりするアクションは多々ありますが、スト2辺りでそれも人相が分かるくらい大きいキャラが大立ち回りをするゲームでスト2並みの自由度はそんなにはありませんでした。
格ゲーなので、確かに動ける範囲自体は狭い。ですが、その中ならどのように動いてもいい。ゲーム的な制約の中でできる行動が、他のアクションゲームより数倍多い。
ここまで動きの幅があるゲームというのは、当時では稀有のレベルだったと言えます。それゆえに、スト2には箱庭の中とはいえ、自由、あるいは自在を感じたのです。
自分の使うキャラが、思うように動く。これこそ格ゲーの妙であり、長所なのです。
そしてスト2の大流行によって、活況を迎えたジャンルがありました。
それがキャラものゲーです。
キャラクター物格ゲーに見るキャラと格ゲーの親和性
キャラものゲー。それだけで眉に唾をする人も多いでしょう。気持ちはわかります。それだけの積み重ね、それも負のやつがありますし。
ですが、キャラものゲーの格ゲーというのは未だに出続けている根強いジャンルです。神や文豪のネタ系もありますし、単純な2Dタイプ以外もありますが、とにかく様々な形でそれらはあります。
何故か、といえば章題の通り、格ゲーフォーマットとキャラものゲーが相性がいいからです。
先述のようにキャラクターを動かせる、という部分の自由度が他のゲームより格ゲーは大きいのです。
格ゲーはキャラクターを自分が動かして、攻撃したりガードしたりしている、というのが実感としてわかりやすい。その上、自分が動かしたいように動くから楽しいのです。
それが好きなキャラクターなら、尚の事楽しくなるのは理の当然なのでしょう。
特にバトル要素のある作品だと、その好きなキャラクターを動かすこととバトルすることはイコールになりやすいので、格ゲー化はある種必定まであります。*2
なので、キャラゲーの格ゲーが手を変え品を変え未だに出続けているのも、格ゲーというアーキテクチャがキャラゲーと親和性が高いゆえんなのです。
稀代のキャラゲーとしてとストリートファイター6
格ゲーはキャラゲーである。
つまりこうも言えます。
『ストリートファイター6』もキャラゲーである。
そういうと噴飯物とする人もいるかもしれません。
しかし、ここまで考えてきてその考えに至るのは理の当然なのです。
そもそもの話、ストリートファイターシリーズは30年くらい続く長寿シリーズです。そしてそのキャラクターも、30年選手。
つまりは既に世の中に受け入れられているキャラクターと言っても、なんら差し支えがないのです。そういう意味では、ストリートファイターシリーズは完全にキャラクターものとすら言えるでしょう。
むしろ、30年近くそのキャラクターの基本を維持しつつ、いろんな道が模索されてのちにスト6があると考えれば、そのキャラクター性をうまく時流に乗せきった稀代のキャラゲーこそ『ストリートファイター6』だとさえ、言ってしまえるのです。
というか、キャラゲーとしてのスト6は完成度が異常です。格ゲー部分の仕上がりや、システム面やネット対戦の仕様もですが、ここで異常なのはキャラの掘り下げです。
今までは、こいつら平素何やってんだろ、というのは常々ありました。
しかし、それがアーケードモード辺り以外で語られることは稀でした。そのアーケードモードでも情報も足りない! 足りないの! なレベル。
その辺はスト5辺りで少し改善しましたが、スト6ではアーケードと更にもう一つ、ワールドツアーモードでキャラクターの掘り下げを敢行してきました。普段何してるか、直接見れる! 今までのキャラ魅せの絞り具合からは及びもつかない!
だからスト6はストリートファイターシリーズのキャラが自由に動かせて、更にキャラ掘り下げもしっかりあるという、ストリートファイターシリーズとして稀代のキャラゲーとなっているのです。
いるんです!(グルグル目)