「天職」「適職」志向の裏の皮

寝るのが早すぎて起きるのも早すぎる、お薬8日目。 まだ眠気があるから、もう一度寝るか。
さておき。
天職と言う言葉があります。 天に与えられし所与の職、と言う所でしょうか。
また「適職」と言う言葉もあります。 その職に適した人材である、とでもいいのんでしょうかね。 「この「天職」「適職」を求める指向が強まっている、でもそんなもんはない」などと言われている事が多々あるかと思います。
確かに「天職」は存在しないかもしれません。 あるとしてもそれにつける人は少数でしょう。 「適職」も求めるのではなくおのずから適すようにしていくものなのかもしれません。
しかしながら、上記のように言われてもなお、人は「天職」「適職」を求めます。 これは何故なのか。
それは人が就労する人に、「その職に適した能力、思考、性格であること、つまり資質があること」を求めるからではないか、と私は思うのです。
私達はある職業に就いた人が問題行動を起した場合、まずその人の資質をその「職適性」というふるいにかけます。 ここで何かが引っかかれば、即座に「適性」の問題となり、「なんでこんな人がこの職に就いたんだ」という言動として現れます。
ここをクリアしてもまだ続きがあります。 「良き〜」というふるいにかけられるのです。 ここで引っかかると「普通だったけど、その普通さがだめだった」ということになります。 起した問題の度合いに応じて、このふるいは更に何段階も続きます。
このように、私達は常にその人がその職に適している事を求めている。 ゆえに、自分が就く時にもこの「天職」「適職」思想が出てきて、それ求める人が多いわけです。
たまに言う人がいるじゃないですか。
「そんな(資質のない)人は〜〜(職名)であってはならない」
って。
つまる所、「自分が適職に就く」事と「他人が適職である」事は同じ一つの皮の裏表なのではないか、と言う事を言うだけ言ってしめとさせていただきます。