オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の六

初めに

 <オタク>と<教養>と<オタ教養>について自動筆記めいて文章を連ならせるだけの試みです。過度な期待はナッシング! でお願いしたい。基本的に話の筋がぐにゃぐにゃで、途中で要旨が混乱してくる事も大体毎度なのです。書きたいと思った方向にずるずると引き摺られるのと、基本的に吐き出すのが主題の文章で、読ませたいという気持ちがだが、しかし、まるで全然、他人に伝えるには程遠いんだよねえ! という自分サービス! なのが原因です。いつか綺麗になった文章とかも上げてみたいですね。という冗句はここまでにして。
 それではいってみましょう。

六「知ろうとすること。な立ち回り」

 <自分>の形を明白にする為に<教養>はある、ならそれを身につける過程で<教養>の推薦者が推し進めるのとは違う<教養>の<自分>になった場合にdisらないで欲しい、というのが前回書きたかった事だが、予想に反して「<教養>とは<知をどうするか>である」という方向にまとまってしまった。書いててよく分かってないけど、でもまあ、この<知をどうするか>という部分での立ち回りが<教養>の腕の見せ所だろうとは、考えが及ぶ。他人の<教養>、つまりそのどうしても知りようがない<知をどうするか>という部分に、どう対処するか、というのが肝要ですね。前にも書いてますが、これを否定するのか、それとも承諾するのか、有耶無耶にするのか。それぞれで受ける側の人の<教養>が知れる形になる。前は色々ある、と書きましたが、でも結局否定する選択肢は無<教養>であると言えるのではないかとも思えてきた。知らないのを知らない! で済ます態度が<教養>的か? と言うよりは、相手の<教養>、つまり未知を受け入れる事が<教養>の一義である、と考える方が妥当ではないか、というくらいです。
 このシリーズの最初の方にも書いてますが、全部の事を知る事は現状不可能です。未来の技術で皆が皆、が可能になるかもしれませんが、それならそれで、いや、そうなってからこそ<教養>は生きてくる時代になるのかもしれませんが、それは今はどうでもよく、現状全ての事は知りえない、の方が重要です。全てを知りえない、と言う事は、必ず起きます。これは必ずですよスピス(鼻息荒)。この世のどこにでも知らない事がある、と言えます。その知らない事に、どう相対するか。ここに<教養>が、それに裏打ちされた<自分>効いてくるのです。そしてそれをどう処するかでも、<自分>が見出されるのです。と大きく出てみましたが、だからこそ、単に否定するだけではいけない、他人という未知に対するなら尚更である。そこを知ろうとすること。という立ち回りが重要になってくるのです。焦らず、騒がず、落ち着いて、自分の取れる手段で情報を集め、吟味し、披露する。そういう地道な立ち回りが、重要になってくるのだ。確かに全てが分かる訳じゃない。けれども、重要な分をきっちり得る立ち回り。そしてそれをまだ途上として常に柔軟に知識を得ていく。そういう立ち回りが、<教養>という時には必要なのではないか、と色々考えてみたりもします。
 なんかごちゃごちゃしてきたので軽くまとめると、つまり知ろうとすること。というのが<教養>の重要点であるという事。それが何の事であれ、知らない事は知らないと認め、それを知る為の方策を考える事。この部分の手触りが、その人の<教養>、そして<自分>、として立ち上がってくるのだ、と言う事ですね。後、どこまで知るか、もその手触りにかかわってきそうです。しつこいですが、全てを知れないのです。一点突破であるただ一つの事象に対してでさえ、知るには多大な労と時がかかるのです。そう言う訳で、知る方策を立てると同時に、どこまでを知るかという線引きも重要になります。この世には色んな事があり、それらが絡まり、うねり、そして偶に一つの事象として浮かび上がってくる。その事象の突起にだけ引っかからず、その下の絡まりとうねりをどこまで紐解くか。そこに<教養>が必要になってくる。しかし、その<教養>を、自分の<教養>と違うからと否定できるのか、というのが書きたかった事。なんか同じ所グルグルしただけですね。
 そんなでやっとこ続けます。
 結局の所、相手に<教養>を求める時に、それは何故求めるのか、というのが勘所。先に知ってた<教養>のある自分を称揚されたいのか、同じ<教養>を持つ仲間として加えたいのか、その<教養>知ってもらった事実を喜びたいのか。そこら辺りはたぶん渾然一体と言う言葉が我々の切り札。でしょう。つまり、どれも別け難く繋がっている。その中でどうやって上から教えてやるぜウェーハハハハ! を見せないようにするかが、<教養>の態度として一つ重要だろうな、とか考えているのです。まあ、それは知っている側もだけど、知ろうとする側も、どう対処するか。知らないのにでかい面、とかそういう話になると、そりゃ<教養>側も上から目線になるよ、という。どちらにしても、知ろうとする時の手触り肌触りは、どちらにも考える点はある。なんかまたグルグルしだしたなあ。一回区切るか。次回予告?
 <教養>側の言う物件を見ていくのは、<自分>を見つける一つの修養としては正しいのかもしれない。と考え始めたので、その辺を次回は考えたいですね。と言う事で次回。