無期待論

松野秋鳴さんには大いに成長し、何でも書ける人になってもらいたい。
ならなかったらぶっとばす。

 これは誰の言葉でしょうか?
 正解は「このライトノベルはすごい!2006」での冲方丁の「注目の作家」松野秋鳴さんへのコメント。 ある意味、冲方さんらしいといえばらしい言葉です。
が、私にはどうしても違和感のある言葉に聞こえるのです。
 だって、「何でも書ける人」になれるっていうのは、個人の努力だけでは不可能な事じゃないですか。 需要と要請と運が無いと、いかに書けるっていっても書かせてもらえない場合があるじゃないですか。 例は、まあ色々な人がいますよね、と言葉を濁しますが。
だのに、「ぶっとばす」ですよ。 自分の怠慢で書けないのなら、まあいい。 しかし、上記のように、個人の力量だけで「何でも書ける(=何でも書かせてもらえる)」ようにはならないんじゃ無いかと思うんです。 それなのに「ぶっとばす」。
 檄なんだとは思うんですけど これはもう、「ミザリー」じゃないでしょうか。 はっきりいって内容的に「書かなかったら足を叩き折る!」と同等の理不尽さがあります。
 なぜこうなるのだろうと思うと、結局は「期待」を持つから起きる現象じゃないか、と考えが行き着きました。 「期待していた」ものから裏切られたという感覚が、「ミザリー」化現象を生むのだろうかな、と。
 「期待」ってなにが怖いかって言うと、期待されている方には期待する側の期待の度合いがさっぱり分からない事です。 「期待している」という言葉が何に対してか、どれ位か、全く分からない事です。
 そのくせ、少しでも「期待」に沿えないと、相手は猛烈に抗議してきたり、失望したりするわけです。 ファンはいつでも「ミザリー」となるわけです。 それも好きであればあるほど。 このように、「期待」は罪深い。
 これがある限り、読者と作者の関係は「作者がいつ爆発するか分からない読者という爆弾を抱える」という形になる。 幾ら読者が金を払っているといっても、「ミザリー」化するほどの強権を持っているとは思えません。 では、もう少し読者と作者が穏便にすごせる関係は無いんだろうか。
 ってんで考えてみると、「期待」を持つからそれを裏切られるんであって、「じゃあ最初から持たなきゃいいじゃん」という、いわば無期待論を思いついたのであります。
 「期待」が無ければそれに裏切られないから、抗議の念も失望も感じない。 そういった圧力無しに、中身を云々できるのではないか。 負の感情にバイアスをかけられていない目線で感想をいえるのではないか。
 ここに読者と作者との穏便な関係が出来る素地が出ると思う、んだけど、どうだろう。
 「期待」を上回った時の賞賛や喜びというものが無くなるけれど、それはそれで目線に圧力をかけるから、無くてもいいのかも。 どうなんだろう?
 まあとりあえず、私は「川上稔」、「成田良悟」の二人に対してこの方法論を使って生きたいと思います。 上手く行ったらお慰み。
<余談>
 なんか、かっこいい名称は無いかなー。 「好意的無期待」とかでてきたけれど、いまいちだ。