誠意は何故見えないのだろう

 誠意を見せろ、と言う言葉に対してもっとも効果のある行為は、実際に誠意自体を見せることだろうけれど、事象として誠意は見せることが出来ない。
 これが謎である。見えたら大層便利ではないだろうか? なのに何故見えない? そういう事が多いのだから、見えてもいいのではないか? 陰謀か?
 いやしかし、現実問題見れたとしたら、それはそれで問題があるかもしれない。誠意を見せる、という行為をしている時に、見ることであっさりその量が推し量れてはまずいかもしれない。特に誠意が必要でなくて、口だけなぁなぁの誠意であっても見えてしまう、というのは気分がよいものではないだろう。
 あるいは、誠意を見せろ、と口では言っていても、実は誠意自体を見たいわけではないのかもしれない。「誠意を含んだ行動」が見たいのかもしれない。
 でも、それは見れないからゆえの代替行為だから、実際に見れるほうが、よりいいのではないか? 行為を見なくてもよくなって、色々なことが簡略化できるのではないか?
 とかなんとか思考は回る。答えなんかあるか。