感想 阿部潤 『忘却のサチコ』1〜3巻


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忘却のサチコ(1) (ビッグコミックス)


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忘却のサチコ(2) (ビッグコミックス)


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忘却のサチコ(3) (ビッグコミックス)

 大体の内容「サチコは食べる。ただ忘我の境地の為に!」。結婚式当日に新郎に逃げられるという悪夢に見舞われた幸子さん。そのことを忘れる事は、食べる事にあり! と気付き、食による忘却の瞬間を求めることに。この忘却の瞬間が何故食べる時だったんです! もっと違うのないんですか!? というツッコミが激しく入れたい感じなのが『忘却のサチコ』なのです。
 この漫画の面白みというのはそのままサチコさんのパーソナリティに直結しているといって過言ではないでしょう。はっきり言えば、サチコさんはちょっと変人です。仕事に対して大変マジメ、というのが行き過ぎている感じの場面が散見されます。原稿読む時に椅子に正座とか、原稿受け取りに行って一々律義に小部屋でやっぱり正座待ちしてるとか、新作書いてもらいに行って多いに粘ったりするのはいいけどコスプレしみたりとか。そもそも最初の結婚式での新郎逃亡の折の周りへの謝辞が非常に格式ばっていまして、先に、幸せになります! といきなり言った後に新郎逃げた! で、そこで感情がもりっと入りそうな所で出る口上が完全に業務連絡のそれという、今新郎に逃げらられた人が言う言葉じゃ全然ないという固まり具合です。それでダメージが無いのか、と思ったら、実はしっかりダメージを受けていて、それが結婚式のすぐ次の日の仕事場では、行く時点でちょっとおかしいですが、それでも特にそうは見えなかった、と思ったら良く見ると行動がおかしくなっていて、最終的に道行くお婆さんに支えてもらわないと立てなくなる事態に及び、自分が大ダメージを受けていて、でもやっぱりその逃げた新郎が好きなんだ、と分かって号泣。というズレ具合が酷い様を見せつけてくれます。
 そんなサチコさんですが、その号泣の後に食堂に入って鯖の味噌煮定食を食した所、その新郎のことを一時忘れる、という体験をします。これによって、サチコさんは食道楽の道へと足を沈ませていくことになります。この忘我の境地を、というのが面倒なのは、一度食べた物では同じように忘我出来ない、ということ。それゆえに、サチコさんはあちこちでご飯を食べていくという、普通そんなに色々な所行かないよね、という疑問への大いなる言い訳が生まれます。とはいえ、その言い訳はあまりこの漫画内で使われることは多くはなく、仕事場の人があいつ最近食べ歩いてるみたいだぞ、という話としてのみ立ち上がってきています。この辺はちょっと面白い手技ですね。例えば『孤独のグルメ』だとこの辺の、つまりあちこちで食う言い訳として店を持たない輸入雑貨商だからその都合であちこちに行くので、という回答がするっとある訳ですよ。それに対するこの漫画の回答がきちんとありつつ、でもそれを極力使わないというのが上手いのですよ。『孤独のグルメ』も、そういう設定である部分をことさら強調しませんが、この漫画での場合は更に自然に、そういう側面はありますけど? という匂わし方しておいて使わないのがいいんですよ。
 と言う話はさておき。
 それにしても、食べるというのが逃避として描かれているように見えているのに、どうにも違うアトモスフィアが醸成されているのも面白い所。確かに忘却という逃避行動なんですが、それでも逃避というより耐性の獲得のような雰囲気があります。実際、忘れる、と言いながら新郎の俊吾さんのことは全然忘れられていません。折々で思い出したり、大阪に出張時に作家先生ほったらかしでその俊吾さんの影を追い求めたりしますし、俊吾さん似の人にキュンときたりします。最初の話で俊吾さんのことを思い出して街中で動けなくなった人とは思えない回復が見て取れますが、これは俊吾さんの記憶を忘却したのではなく、俊吾さんがいない寂しさを忘却したから、と言ったら言い過ぎでしょうか。でもそんな気がします。俊吾さんについてはやっぱり忘れられてないですし、仕事の鬱屈とかもそれで吐き出すみたいな、そしてどんどんその忘却の、お腹減ってるけど忘我の時の為に行動し始めますし。更に美味く食いたいから腹をすかせてこようとか、ダイエットの為にした運動で空いたお腹に優しいのを食べたら次は本番だ! とかの完全な本末転倒かます辺りも納得出来るのがサチコさんのパーソナリティな辺りがまた上手い。サチコさんだと変だけどらしい、という風に済むのですよ。本当に、上手いなあ。
 さておき。
 個人的に好きなのは先に書いた小部屋で正座待ち回での、最後に到達するラーメンとカツ丼をかっ食らう場面。自分だとそんなに食えないのは分かるんだけど、でもそのコンビが大変美味そうに感じて、想像して腹が減る減る食いたい食いたい。こういうことが出来る店が郷里にはないので、余計に羨ましさと腹減りが加速します。そう言う意味でも全体的に腹の減る漫画でもありますが、どの巻収録のものも総じて美味そう度が高くて、そしてシチュエーション的に美味そうというのも色々あるのが良いです。最終的に忘却の境地へ到達するのも分かる美味そうさであります。はお一人様お食事物として、忘我という個人的な面に到達するのが目的、なので純度が高い漫画でもあるかと思います。