松本勇佑 『エスパーおじさん』1巻

 

エスパーおじさん1

エスパーおじさん1

 

 大体の内容「エスパーの、おじさん!」。というのが特別な意味合いは全く持たないで、エスパーのおじさんが超能力を微使して日々を送る漫画。それが『エスパーおじさん』なのです。

 この漫画は、エスパー能力があるおじさん、藤田シゲルさん(中年)のなんでもない日々の話を4コマで認めたものです。というか、普通にサラリーマン生活をしている、というのがエスパーという語との印象と乖離が激しくてダイレクトに脳を揺らされる人も多いかと思います。そもそも、エスパーと言って速攻で超能力という言葉と結び付けられる世代だと、エスパーというものがどういうものであったか、というのを酸いも甘いも知り尽くしているものだと思います。そのエスパーが、屈託なくサラリーマンしている、それも超能力をそれなりに使って、という語面で、あ・・・? あ・・・? という複合した感情が現出してしまうでしょう。

 そう言う部分もある、という話はさておき。

 この漫画の良さ、というのは、やはり超能力の使い方が所帯じみている、あるいは地に足がついているということが挙げられます。

 たとえば、テレポートで電車の空いた椅子に座ったり。

 たとえば、テレキネシスで自販機の下に落としたお金を拾ったり。

 たとえば、テレパシーで寝ている娘を起こしたり。

 たとえば、クレボヤンスで草むらの中のボールを見つけたり。

 その能力を派手なことではなく地味に、しかし手足の伸長のような当然さで使うのです。それも、50代(かな?)サラリーマンという身の丈にあった感じに。ここが、この漫画の味わいになっています。

 軽々に超能力なんてもったら、どうなってしまうか、というのはそう言う作品はあまたあるので、諸賢はお分かりになるかと思います。大いなる力には大いなる責任が伴う。という言葉もあります。それだけ、力というのはとかく人を振り回すのです。あるいは、シゲルさんもそういう方面に行く可能性があったのかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。そうはならなかったんだよ、ロック。

 その辺は家庭の事情というか、シゲルさんの両親の教育が良かったというのもあります。特別な力がある、というのを、過大にも過小にもせず、そういう人である、という受け入れ方をして、そしてそれを皆に知られていけばいい。と考えていた、と挿話されます。これがその後の人生に影響したんだなあ、と感じるに十分な挿話ですし、実際にそうなっているのも合わせて、納得できるものがあります。そしていいご両親だったんだなあ、と思ったりも。

 さておき。

 しかし、超能力を全く地味に使う、というのは中々考えつかない位置です。だからこそこの漫画が成立する素地があった訳ですが、あるいは、『ジョジョの奇妙な冒険』第4部<ダイヤモンドは砕けない>にも近しいところ、つまり日常の中に溶け込んだ異能力というものを描くという地点、にある漫画となっているとすら言えます。とはいえ、ただ普通に生活中に能力を使う、それも地味に、という点がこの漫画の面白さ。そんな小さいことで! という立ち上がり方をしています。その辺は先述していますが、本当にいいのか、そんな程度の使い方で! ってなり、それが笑いの源泉となっているんですよ。ここをケーッ! ってなるか、面白い! となるかでこの漫画を楽しめるかどうかのジャッジが為されるんですが、とりあえず2018年11月27日現在で3話目まで配信しているので、それを見てこういうのね。と判断するといいと思います。こういう予め合う合わないを確認出来る時代っていいですね?

 さておき。

 この漫画、超能力とかに馴染みのある世代である我々(安易な全体化)には、それを小市民的に使う、というのがいい、とは書いてきましたが、それ以上に、妙に癒し系というか、ほのぼのを感じるのです。低等身、というかSDの域の絵柄の可愛らしさと、超能力を持っていても、我々(安易な全体化再び)と変わらないのだ、という地点が生み出すくすりとした笑いが、心をほぐしてくれるのです。たぶん。たぶんね?

 この辺は、作者さんサイドが狙っているのか私の勝手な感受性なのか。分かりませんがとにかくどっちにしても柔らかい口あたりで大変和むのです。そういう不思議なエスパー漫画。それが『エスパーおじさん』なのです。