いろいろと思った事

あー思い出すだけで気分が悪い。 ゆえに切れ気味です。支離滅裂複雑怪奇めくらめっぽうなので要旨がつかみにくいかもしれません。 非難反感蔑視貶し、どうぞご自由に。
さてさて。
以前に「おおきく振りかぶって」でいろいろとあまり建設的でない単なる愚痴がネット上であげってきてグダグダした事があったかと思いますが、その時いろんな場所を見て回ってふっと。
「書店において書店員の個性という物は求められていない」
と感じました。
書店がどこにいっても金太郎飴のごとく似通ったラインナップな事に批判があったり、ポップや陳列、フェアなどでの「個性化」の部分がクローズアップされたりすること最近良く見られるようなった、と思いがちですが、これはここ20年ほど脈々と続いている現象です。 最初期が西友に池袋リブロが出来たあたりだというのを「書店風雲録」という本で読んだような…。*1
まあ、それはさておき。
そういう書店の個性というものが長々とあちこちで言われている割には、そんなに「個性的な本屋」というものが少ない。 あまりに少ない。

これは中心と辺境という分類をすると中心のみに個性的本屋ある、つまり利益面で個性的本屋になれないというの部分もありますが、そこはまあおいといて中心地の本屋に限定して話します。

そもそも、書店の個性とは? POPをおいたり、陳列を工夫したり、特定の本種に特化したり、フェアを考えたり、いすなどの設備を充実させたりするのは、「本屋」という建物でしょうか?はたまた、「書店」という概念が飛んできて自動的にPOPになったり、陳列してくれるんでしょうか? 「会社」なる物がやってきてつくってくれるんでしょうか。
まさか。 付喪神や概念兵器じゃあるまいし置物や建物が動くわけありません。
そういうことをやるのは、何時だって人です。 それに携わる人です。
書店員の個性、思考、努力こそ、書店の個性につながるのです。 それをないがしろにして「個性的な書店」なんていうのは、まさしく本末転倒な事です。
しかし、あの一件は書店員の個性が受け入れられなかった一つの事例にして氷山の一角であります。
それは確かに、ある人の「個性」が受け入れがたいという人も当然ながらいるでしょう。 しかし。
そういう人はなぜ、それを受け入れられる人がいるからこそ、その「個性」がでてきた事を無視するのでしょうか?
自分の許容できる「個性」以外も佃煮にするほど「個性」を持つ人がいるという事をなぜ無視するのでしょう?
いや、こういう多くの多くの人は、無視しているわけではないのです。 許容してないわけでもないのです。
ただ、そういうものがある事が見えていない。 まったく見えていない。 思考の端にも浮かんではこないのです。 ゆえに突然出てきて、自分の「個性」に合わないと嫌悪するのです。
それはあたかも。プロジェクトXで成功した物しか取り上げず、もっともっと星の数ほどある失敗に次ぐ失敗でまったくもってダメのダメダメだった物にスポットが当たらないがごとく。
歴史の陰でほんのりと影響を与えつつも、名も知られずに消えていった多くの多くの人達―たとえばエニアックで実際に弾道計算した人達や、コンピューターの無い時代に六文儀などを使って手計算で艦砲射撃の角度を計算した人達―のごとく。
そういう物が当然のようにあってこの世がある事を、そういう人たちが当然のようにいる事を、私達は―この世の全知識を知る事が出来ない以上―絶対に*2知りません。 その「知らない」という事実は認識しておかなければなりません。
しかしたいがいの場合、ちょっとでも自分の「個性」では及びも尽かない他の「個性」を見ると、己の「個性」に影響―今回の場合は“汚染”というべきでしょうか?―がでる事に警戒してしまうものです。
ゆえに、一般的に言われる「個性的な本屋」というのは「自分達の常識上で個性的な本屋」という事で、ゆえに「その範囲外の個性を持つ人がつくる本屋」というのははじかれてしまうのでしょう。
良く「出る杭は打たれる」といわれますが、これは飛びぬけた優れた人が打たれるみたいな響きをもっていますけれども、実際には世の常から外れている―中島義道のおっさんっぽく言うと「定型化」されていない―から打たれるという意味合いなのかもしれません。
ちょっと脱線しましたね。本筋に戻しましょう。
結局の所、「書店の個性は書店員によってでる」というのは間違いないことだと思います。*3
しかし、「おお振り」の件ではその書店員の個性が「邪魔」扱いでした。 これは一体どういうことなのでしょう。
この辺はもしかすると、われわれが数多の販売員に個性など求めていない、極論すればロボットでもかまわないと思っているからなのかもしれません。
「そんなバカな事あるか。 だいたい、店員の方が定型的に接客するじゃないか」とお思いの方、それでは質問させていただきますが、あなたはコンビ二の店員に「ありがとう」といった事はありますか? スーパーの店員に物の場所を聞いて「ありがとう」といったことがありますか? 銀行で手続きした時の係員に「ありがとう」といった事がありますか? ティッシュ配りの人にティッシュをもらって「ありがとう」といった事がありますか? 断るときに「すいません、いりません」っていったことがありますか? 書店員に本の場所を聞いて「ありがとう」といった事がありますか? 目当ての物が無い時に、事情も考えず店員に当り散らしたことがありませんか? トイレの清掃中の人に「お疲れ様です」って言った事ありますか? ごみ拾いや交通誘導員の人にねぎらいをかけたことは?
ここまでで、全部した事のある人なんて、日本人口の老若男女、1%にも満たないでしょう。
そう。我々は、そういう人たちを「人」としてみていません。 「人」であるのに「人」として見られないなら、「我」を削り、定型的な返答回答あいまいな笑いで済まさなければ、やっている方の精神なんて持ちません。*4
されされ。
こういう定型的な接客は江戸の商人から始まって、明治以降百貨店に受け継がれ、今の接客の基本となったそうですが、*5それがいまやどこやかしこでも平然と行われる事に我々が慣れ、それゆえに「書店員の個性なんていらない」と断ざれるようになったのでしょう。
でも、繰り返しになりますが書店の個性は書店員の個性なのです。 ゆえに「書店員の個性なんて要らない」ということは「個性的な本屋なんていらない」と同義です。 「書店員の個性」を否定するなら、今後金輪際「個性的な書店」なんて口走るまねはやめてください。その口から腐った息がもれて、私の鼻がもげそうになりますからね。 ああ臭い臭い臭い。
……なんとなく、私信的になっちゃった節がありますが、まあどうせ、好き放題いってみましたってだけですし。
ご批判とかは甘んじて受けますよ。

*1:その池袋リブロも普通の総合型本屋になった辺りを考える必要もありますが、それは近県の人がやってください。

*2:なんて、神にしか使えない言葉でしたっけね。

*3:本社が、とかそういうのもあるでしょうが、その本社の指示もそれを考えた人がいるんですよね。

*4:実際、私はこの事に悩んで調子を崩し、接客業が出来なくなってしまいました。

*5:えーと「考える力」とか言う雑誌の6号で中島義道さんがたどっていました。