「タマラセ」の命の重さ

いきなりですが六塚光「タマラセ」のネタバレを含みつつ話すので、見たくない方はとっとと散った散った!(横暴)
一応反転します。
「タマラセ」の感想を見て回ると、「命が軽い」というのによくよく行き当たるんですけれども、私にはそれって本当にそうなのかなあと思うわけです。 よってどこから「命が軽い」という感覚が出てくるのかを検証してみようかと思います。
さて。
「タマラセ」において、後天的にタマラセが使えるようになった者は、いずれ暴走状態といえる「過醒」におちいる。 そうなった時には「殺す」しか手が無くなるという事になっています。
では、それを実行するのは誰なのか?
一巻においてはそれは「八坂井三千人」だけです。 彼はその道のベテランで、まったく容赦呵責無しにその命を絶ちます。 しかし、のべつまくなしに殺すか、というとそういうわけではありません。 ただ必要な時には全く躊躇しないだけです。 そして自分のしている事が人殺しである事を十分に認識しています。 また一巻のp98〜p102においてわざわざ殺す所を三助に見せてから協力するかどうかを決めさせたり、二巻のp298の台詞「君だけに人殺しをさせるものかね」や、「夏月」に人殺しはさせていない事(二巻の台詞「私の手は二本しかないんだ」からそう推測される)などから見ても、その行為の重さが分かっているというのが見えてきます。
また、二巻においてはそれは「伊勢谷景」です。 「伊勢谷」は仕方が無いながらも、幼なじみを手にかけます。 そしてその事が重荷として彼女にのしかかり、二巻の顛末へと向かう事になります。
実行者の点から見ると、「タマラセ」の世界において命がかなり重い事が分かります。 では「狩られる者」はどうでしょうか。
確かに一巻における「赤池」、二巻における「神山」は殺されても文句の言えないひどさがありました。 しかし一巻の「船子英二」はどうだったでしょうか。 彼は方法が容認されなかったとはいえ、真剣に隕石の対処について考えていました。 「辻浦」も狩猟者以外を無闇に傷つけない思慮があります。 また「伊勢谷」の幼なじみ達も特段に悪いわけではなかった。 こう見ると案外単純なやられ役の方が少数である事が見えてきます。
となるとなぜ「命が軽い」と思われるのかが逆に不思議になってきます。 しかし答えは意外に簡単な所にあります。
それは「タマラセ」が「三助」の視点からしか語られないからです。 そして「三助」は自らの内面をまるで語らず―言い訳すらせず―、ただ見たがままを述べるだけだからです。 この視点ゆえに結構凄惨な話なのに軽く読めてしまう。 重く出来るのを重くしない語り口であるがゆえに、「命が軽い」と感じられるのだと結論します。 で、この結論から私は「六塚光は底意地が悪い」と思ったりするわけです。

以上、ぐだぐだと書いてみました。