オタの世代間争い風味を見て、いつも思う

 ててとーに語ります。

  • お断り:本文において、私はオタクと教養の関係を時代状況比較のうえで、『学問』として披露したいわけではなく、そのような能力もない。ただ、「直感」に基づいて(私の直感が納得する範囲内で)、長年考えてきた事をに正確な言葉を与えたいだけである。しかも、私はオタク(の一部)と教養(の一部)しか体感的には知らない。
  • だから、ここでは古典的なおたくと教養の対立図式を使わざるをえない。閲覧者諸賢が、「そういうことはオタクだけではない」とか、「オタクにはその枠では説明できない事例もある」という感想を抱かれたら、たぶんそうではないかと思う。具体的な反論を、あまりないだろうけれど、期待する

 さておき。
 オタク/おたくのあり方にとって、「これを見てるのが必須条件」とか「これ教養だから見るように」とかは、一番ナンセンスな事を言っている気がする。なぜなら、オタク/おたくにおいて、「それ見る」という行為自体が学問などのそれと、趣が異なるからだ。
 何故異なるか、というとオタク/おたく趣味というのは誰かに決められたものを見るのではなく、自分が決めたものをみるから。それこそ、オタク/おたくのあり方といえないだろうか?
 大抵の場合、自分が決めた、といっても誰かの影響がないとはいえない。そこに行くように誘導されたかもしれないし、そこ以外なかったかもしれない。けれども、どんなに最低限のラインであろうと「自分が決めた」という意思決定は重要なのは論を待たない。
 そして、初期におたくと言われた人達は、まさしく自分達で、必須、教養とされる小説やなにやらの既存の文化ではなく、アニメ、漫画などに耽溺する事を、選んだはずなのだ。つまり、自分達の手で、自分達と共に歩むものを選んだ、はずなのである。「お前らの教養なんて知るか! ファック!」だったはずなのである。ゲバ棒を持つ代わりに、アニメを手に取ったはずではないのか?
 それなのに、最近は相手が、教養やら必須やらを己が手で選ぶべき範囲において、自分達の選んだものを、選ばせようとしている、ように見える。そうしない人をオタク/おたくではない、とさえ、言ってはばからない。昔、教養と言われたものに自分達がされていたような事を再生産するように、すら見えるのだ。
 しかし、後から来たオタクにとっては、「教養」や「必須条件」など、どうでもよかろうなのだーーっ!!
 知らないバカがいちいちもっともらしく言ったら、鬱陶しいかもしれない。教養教養言い出す時の大半はそういう時だ。だが、それなら逐一逐次、「うるさい、バカ」って言えばいい。その都度、修正してやればいい。そのせいで喧々諤々すればいい。
 それが好きなものを守るという態度ではないのか。
 最初から自分の都合のいい筋道で選ばせるのは、相手をオタクにするのではなく、自分の都合のつく生き物にしたい、という態度に思えてなりません。
 それから相手が知ってくれたら大丈夫、とかいう事はまずありえない、と思った方がいい。ファック文芸部部長、id:nandは言いました。「他人は運」。自分が好きなものを運任せにして、大丈夫? 私は、とてもじゃないけれど安心できない。ちゃんと、見てどう感じたかを聞いて、自分の理解と相手の理解をすり合わせたいと思う。面倒だが、出来るだけ運任せではない方法を取るなら、それ位しか考え付かないから。
 そして、そうやっていく事が、おたく/オタクとして生きていく、という事の一端になるのでは、とも思う。
 以上。ててとーに。