日記を書いてる場合じゃない!

悪魔のミカタ」の13巻が面白すぎますので、今日の顛末とか書いてる暇はありません。 
読みます。
読み込みます。
読み倒しちゃいます。
 
舐めまわすように触るように隙間も余さず這いまわすように
咬み切るようにに食らうように骨も残さず食い尽くすように
飲み込むように飲み下すようにそのものを丸呑みにするように
読んで読んで読んで
読んで読んで読んで
読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで
読み倒します。
そう、倒す。 まさしくこの言葉こそ俺の今の状態。今の気分。今の思い。今の願い!
読もう読もう。 本を読もう。 「悪魔のミカタ」を読むとしよう。
そして言おう。 高らかに。 「この作品をよいものだ!」、と。
それは、「評価を受けなければならない」ものだからかって?
ノンノン。 そんな言葉はまさしくまったくまるきりまるで。
ナンセンス。 ただただナンセンスだ。 そう、ナ・ン・セ・ン・ス。
そもそも。
「されなければならない」ってなんだい? ためしにもう少し噛み砕いてみようか。
「される必要がある」。 ちょっと意味が違うかな?
「される責任がある」。 まだまだ。 もう少し詳しく。
「それに対して、だれかがそうする責任がある」。
 はははっ! そう! それだよ。 よく出来ました花丸二重丸!
古来より、本はただそこにあるがのみ。 おのずから語らず、評価もせず。
ゆえに「だれか」に語られ図られ、さりとてそれをただ受諾するのみ。
その、受諾するのみの存在が「だれか」に評価や語りする「責任」を負わせるのか?
教室や道端やサロンや酒場やネット上で
「本」について語るのは、その「責任」から?
休み時間中に帰宅途中に社交中に酔いどれ中に真夜中に
「本」を評価するのは、その「責任」から?
そうではないよ。 少なくとも俺にとっては、ね。
ではどうして俺は高らかに「良い」と評価し、語ろうとするのか、ってか。
その答えをある漫画の台詞からでも引用してみようか。

“どうして”? “どうして”ですって? 
そんなこと? あははっ おっかしい!!
そうしたいからよ。
他になあんにもないの、そうしたいからそうするの。
ブラックラグーン3巻p38より)

そうとも。 まさにそれだ。
そうしたいのだ。 そうしたいからそうするのだ。
己の内より出でて、しかし己でもよく分からない、――「魂」なんてものではなく、それよりもっと打算的で高慢で薄汚く鼻持ちならない独りよがりで自己満足な――「何か」によって。
それは「責任」ではない。 むしろ「欲望」に近いものだ。
言いたいという、知らしめたいという、認めさせたいという、認められたいという、教えてあげたいという、偉ぶりたいという、
欲。
読みだけでは飽き足らず、語り、紹介し、評価する行為まで及ばなければ満たされぬ、本に対する強欲。
善意と懇意、恣意と自慰が混ざり合って欲の形をなしたもの、それが「何か」だ。
誰もがその「何か」を持ち、それによって語り、評価するのだ。 そこに“正当”とか“本当”とかは無い。 ただ、AとBとCと・・・・・・、という個々の「何か」のなか個々人で使い勝手、都合のいい物が“正当”、“本当”の冠を与えられるだけの話である。
ならば、他人の言う“正当”など目もくれず、己の“正当”をでっち上げて、「良い」といっても問題あるまい。
ゆえに、俺は言うのだ高らかに。
「『悪魔のミカタ』は俺にとって良かった!」と。
ご満足いただけたかな?
ん? なんだか危険思想っぽいだって?
まぁ、他人に迷惑をかけない範囲ならゆるされるんじゃない? たかだか、「この本が好きだ!」ってのを手を変え品を変えて言うだけなんだからさ。