きららミラク、まこと遠くなり申した
 そういう邂逅はさておき、今日のネタ文章は格ゲーを楽しむのは自由でいいというありふれた話です。
 とはいえ、昨今の格ゲープレイは自由では? という方もいらっしゃるでしょうし、うんうん、それもまたアイカツだね! という人もいるでしょう。自由とはそういうものだ、と『THEビッグ・オー』のロジャー・スミスも言っていました。けだし名言です。
 ただ、確かに格ゲープレイは自由なのですが、世の中には窮屈そうに格ゲーしてる方も多い。昔の待ち問題からスト6のモダン問題まで、自由に格ゲーすればいいのにわりとどうでもいい事に引っかかっている人が殊の外いる。特にスト6のモダン問題はうちのような小さなシマで書いた文章にそれなりに人がくることを鑑みると、とても関心が持たれている案件なんだなとお見受けします。
 しかし、速攻結論を言うなら、そういうのは格ゲープレイには基本関係がない事象です。例えばモダンだから、というのでそのプレイをどうのこうのいう権利を持つのはそのプレイヤーだけで、他人が関知するとこではない。
 いや、ある! と言う人もいましょうが、それはあえて言うならあなただけの結論ですよね? 他の人も同じ結論? 本当に一言一句、ナノメール単位で、何時何分何秒何回地球が回った時レベルで同じですか? そこまで同じなら、いっそ自分だけと言っていいんじゃないですか?
 と言いましても、自分自身が異論がある、なら何の問題もありません。別に異論を許さないとかではないので。単に、他人という尻馬に乗って、あるいは自分を全権大使面してしまうことにALASE! するだけです。
モダンの是非は関係ない
 話の通りがよくなるので、モダン論争に絡めて進めていきます。
 モダンをプレイしてはいけない! やっててつまらない! みたいな風に言う輩もいらっしゃいますが、はっきり言えば格ゲーをプレイするのは自由なのですからそういう言説はよくねーと言えるかと思います。
 昔の待ちの話とかもそうなんですが、相手のプレイすることに目くじらを立てる人が意外なほどいる。なるほど確かに、格ゲーは二人でするゲームなので双方が気持ちよくできることは理想ではあります。
 だがしかし! まるで全然! 格ゲーの理解には程遠いんだよねえ!
 と4声が自然とまろびでます。そもそも格ゲーの目的は、相手を倒すことです。そのゲームのルール上で。だからこそ自由。相手を叩きのめす自由があるのです。ルールに乗っかっているからこそ、相手を組み敷けるのです。
 その相手を倒す自由に対しゲームのルール上で戦わないのは、つまり相手にモダンに引け目を与えたりする盤外戦術をするのは、実際どうなのよ、という話です。
 これは相手の選択、モダンをするには目くじらを立てておきながら、自分の選択、盤外戦術めいては不問に処すというクソタレ行為です。なので、モダンばかりが糾弾されるのは間尺に合わない。ちゃんとそういう盤外戦術もどうなの? と言わなければいけない。その上で検討するならされるべきなのです。
 だから、モダンガーというのはちゃんと盤外戦術に出ます、という意思表示ならいいですが、これで相手のプレイを縛る! というならそこにはもうモダンの是非は関係ないのではないか? とも思うのです。難癖は何にでもできる行為ですし。
プレイの自由
 格ゲーのプレイはルールの中ではありますが、自由です。相手がいかに嫌がることをするか、という対人競技全てに当てはまる論理、倫理がそれを下支えします。二人ですることなのに、協調しなくていい。対人競技にある理であり、その一側面である格ゲーもその則に従います。
 だから勝つ為ならなんでもする、というのはある意味では正しい姿であります。その為に盤外戦術にまで出るのも、一概に悪いとも言えない。トーナメントとかで勝つんや! とかいうのなら、あり寄りのありはあります。『喧嘩稼業』とか読んでいると、そこは全くいけないとは言えないな、となってきていますのでこんなことを言います。
 しかし、盤外戦術までいくと普段使いできる姿でもありません。十兵衛は普段使いしてますが、あれはあいつがバッタを召喚する悪魔の生まれ変わりだからであって、平時ではそこまでやるか? という方向性なのです。あるいはだからこそ日々モダンガーしておくというスタンスかもですが、そこまでになってくると、その手、悪しゅうございます。といえる位置に来てしまいます。
 盤外戦術が悪しなのは、それが規範的になることで排除圧力になるからです。
 またモダン擦りますがモダンは駄目! と言うのが規範になるとモダンでやってる自分は駄目なのか、となる。実際は駄目じゃないですが、そう言われているならモダンな自分をそうなのかとしてしまう。そうなれば、クラシックになるかスト6止めるか、みたいな話になってしまう。これがいかんのです。やめられると、対戦相手が減ってしまう! そうなるのが嫌なのでこういうことを書いています。
 格ゲーのプレイは自由です。でも、変な意見がコンセンサスというか規範めいてなるとその型が正しいのでは、と人は自由を狭めて考えてしまいます。いろんな受け取り方はありますが、ことプレイに対する忌避として表れるのはよくねーのです。縛られず、自由に遊べないといけません。
 繰り返しますが格ゲー周辺で色々あるにしても、プレイは自由であるべきなのです。いかような動きをしてもいいし、いかようなシステムを駆使してもいい。それがどういう意図であれ、どういうシステムであれ、プレイ中の全ては認められなければならない。それこそプレイの自由なのです。
付随してキャラヘイトについて
 プレイの自由には使用キャラの自由もあります。ですがここにもその自由を貶める盤外戦術で蠢いています。
 それがキャラヘイト。これは強いキャラを腐すやつ、と単純にいかないのが面倒なとこです。それだけじゃない。
 強いのは言われるのはまあわかるとこですが、逆に弱くても弱いキャラ使ってんなあ、とヘイトしてきます。若干ヘイトの意味と違いそうですが、そういうのもまたあるのです。あのプロが言ったから弱キャラだ! とかですね。
 この辺のキャラに対するヘイトはある意味では軽口。あのキャラ強すぎねえ? みたいな話はよくあるし、某プロのザンギエフヘイトみたいに話の潤滑油みたいにされることは往々にしてあるので、一概によくねーと言っていいか迷うとこです。とはいえ、やはり過度になる場合がある。相手を貶めるようなやつ、あるいはそのキャラをやめさせるようなやつはやはりよくねーと言えます。
 キャラ選択は、自分のしたいように、自由にしていい。昔の調整の入らないぶっ壊れキャラならいざ知らず、現代では大体なんとか極端な差は付かないようになっています。誰を選んでもいいのです。強キャラも弱いキャラもどちらも選ぶのに悪いことはありません。そこに雑音を入れる方がむしろ悪い。そう考えていいのです。
何故規範を作るのか
 モダンとか待ちとかをこれはいけない! とするのが規範というものですが、繰り返しですがこの制定こそよくねーのです。規範が行けないという規範みたいにここが地味にエンドレスワルツめいてますが、違うのだ! と某ニンジャ顔してとりあえずスルーします。*1
 規範に背くのか、という方向に話がいきそうですが、とりあえずここでの規範は盤外戦術で作られた偽りの規範、ある種の人だけが得をするエセ規範です。そんなものは破って当然でしょう。
 そもそも、このエセ規範の出自を考えれれば、つまるところ俺が不愉快だから、に行き着きます。それはそれでちゃんと一つの意見なので、それ単体ならなんら問題ない。そう思う人もいていい、んだけど、それを拡大させていくのはよろしくない。みんな不快に思っている! とむやみな全体化して、盤外戦術になってくると害悪と呼べるものになります。
 プレイに対してはプレイで相対すべきなのにそれ以前で勝負をつけようとする。そうするのは局面によってはありな部分ですが、一般的な遊びである格ゲーで取るものとしては、盤外戦術は強権的過ぎます。
 そう言うエセ規範をどうしてそこまで忌避するか、というとそれを広めて得しようとする人がいるのが嫌なのはもちろんですが、それのせいで格ゲーの自由を享受するのにミスる人もいるからです。
格ゲー初心者ほど自由にやってほしい
 特に格ゲー慣れしてない層では顕著に誰それが言った系の言説に弱い。格ゲーのことが分からないゆえに、軽々に言説に乗ったり、または惑わされたりします。
 そういうのに耐えられる格ゲー自我を! とも言いたいですが、遊びのことに新たな自我を獲得しないと、はハードル高い気もします。そもそもなんだ格ゲー自我って。まるで意味がわからんぞ!
 だから、せめてもっと自由に格ゲーをしていい、というプリセットを我々は積極的に風説の流布していかないといけない。初心者向けにちゃんと啓蒙というか、前提として、
 格ゲーは如何様にも遊べて、モダンが駄目とかあのキャラ駄目とか全然どうでもいい。言う相手のように適当に聞いて流せばいい。自分がしたいことの為に格ゲーはするべきであり、そう言うのを許容してもくれる格ゲーなのです。
 ここまでをもっと広めて、格ゲー自我までいかなくてもちょっとしたALASE! ができればいいかなと思い、これを書いた次第です。
言いたいこと
 とりあえず、人の言説に耳を傾けることは悪いことではないですが、それが自分のプレイの妨げるエセ規範なら無視して自由に格ゲーする、と言うのが良いんじゃね。
 そう言う話でした。なんとかまとまったので、ここで締めとさせていただきます。
 最後に一言。
 もっと自由に、格ゲーを。
*1:実際のところ、プレイの仕方がよくねーと規範作りするのはよくねーとなので、似ているようで違うものですが。
