『ストリートファイター6』のモダン論争を話の種とします
まず結論から入りますが、モダンあってもいいだろ。というものです。
いきなり話が終わりましたが、少し伸ばしていくことにします。
そもそものスト6のモダン論争、モダンとクラシックの話というよりモダンの話が中心なのでモダン論争としますが、個人的にはさっぱり意味がわからんぞ! という海馬顔になるんですよ。
モダンが要らないということがあるのか? というのがその理由。モダンあって一利なしなんてないだろうと。コマンド操作が格ゲーの煩わしさの1つなんだから、それを解決したんだぞ?
対空とか無敵技、SAとかをコマンド操作なしでぶち込めるというのが大体の忌避される所以ですが、そういうのがないと格ゲーに入ってこれなかった人がいるんだから、そういう人向けなモダンが否定されるのは故なしといって差し支えない。
というか、元来の、つまりクラシックを使っているから対空が出ないってそれどの辺の帯の話よ。って感じます。そういうのがちゃんとできる自負があるからクラシック使ってんじゃねえのか? とも。
という自分はクラシックでプラチナム星2という腕前ですが、とりあえずモダン相手になったらどう跳ばないか、みたいな抑制を利かせています。クラシック相手だとまだまだ跳びが通る腕前帯なので、迂闊に跳んじゃう癖があるのでモダン相手はそこを見直す、みたいな遊び方しています。
だからといって、相手の1ボタン対空や1ボタンSA全てを憎む! 熱力学第二法則を憎む! ってはならないかというと、偶にええもん使ってますなあ! とはなります。
そりゃね。でも、そういう強さだと割り切っています。強い相手だけではなく卑怯にも見える相手も、そういう卑怯という強さがある、とみるのです。
詰まる所、相手が卑怯だ、というので強さを認めないのが、モダン論争の根本です。それは翻ってクラシック使っている自分が正しい強さだという自負がさせるところがあるでしょう。自分の積み立てとかに対する自負というのは、あって問題はない。
ただ、正しい強さってなんだ、というのを全く精査しないで、卑怯=悪みたいな簡単な尺度で物事を計っているから、モダンをいつまでも認められないのです。
卑怯=悪なのではなく卑怯=強いんです。卑怯だから強いんです。そこから始めるべきなんですよ。
卑怯は悪か?
とはいえ、さっきからモダンが卑怯みたいな言いかたになってますが、ある種の卑怯さというか、システムを上手く使っているという合法的卑怯さであるとかでしょうか。
あるいはそういうのがあるのだからきっちり使うというのは卑怯だけど重要な思考である、という言いかたがしたいところです。
ぶっちゃけモダンは卑怯なんですよ。1ボタンで対空できるんでっせ? 卑怯やわ。
とはいえ、卑怯だから使っちゃいけないか、なんて問いかけはナンセンスで、卑怯だからこそ格ゲーに入門しやすくなっているんで、その卑怯さを卑屈に落とし込める必要は全くない。卑怯? ですが? みたいにモダンプレイヤーは割り切っていただきたい。それでいいのです。
というか、卑怯を=で悪と繋ぐのがそもそもの問題です。
モダン=卑怯。
卑怯=悪。
つまりモダン=悪。
みたいな流れになっているのでは、と考えています。良くない論法ってされているやつです。もう我々は21世紀も最初の四半世紀が経ったところにいるんだから、いい加減そういう論法は捨てましょう。
というか、そもそも卑怯が悪と、誰が決めたんだ? まあ聞かれた人は俺って言うんでしょうけど。そういうのはいいんです。
卑怯は悪じゃない。手段の一つをそういうのであり、そこに正義もないし、悪との区別も無い。まあ、ずるいというのはあるんですが、ずるいに対してどうするか、というのは個々人によるわけですし、そもそもずるいは悪ではない。ずるいのはずるいだけです。
ずるくても勝つの何が悪いのか
こういう思考に至った背景に、最近読みだした木多康昭『喧嘩商売』及び『喧嘩稼業』の影響があります。その漫画の主人公である佐藤十兵衛はバトルスタイルが卑怯者、というレベルで色んなずるい手を使って勝つ主人公です。
ですが、それゆえに卑怯というのが悪ではない、というのをまざまざと見せつける男でもあります。卑怯は卑怯という手段であり、それ自体が悪とはならない。勝つ為の、手段。
十兵衛と同じ卑怯者であり、十兵衛との戦いの際、薬物ドーピングをしていた金田保との戦いでも、お互いに様々な卑怯を仕込んで戦いますが、それでも卑怯を悪としては描いていない。それ自体の強さ、卑怯の強さというのが描かれています。
戦いがあり、そこに勝つ為に様々なものを積み立てる。この積み立て自体に悪の要素はない。策謀の域に、つまり手段の域に悪というものは存在しないのです。やれることを全てやって戦う、という地点に、卑怯という手段があっても、何もおかしくはないのです。
そして、卑怯相手だろうとちゃんとこちらも積み立てていれば勝てる場合もある。商売及び稼業の喧嘩士工藤みたいに、卑怯を強さだと認識し、十兵衛の卑怯な策を力づくで突破して勝利する、ということもできる。
結局、モダンガーは勝てないやつの僻みでしかない、とすら言えてしまいます。卑怯でも、ずるくても、結局勝ちを拾えるからこそ勝っている訳で、そこに勝てないのなら自分が積み立ててないだけだろう、とも。工藤のように、卑怯を強さとして認識していないのです。
まあでも、ずるいのはずるいって言いたくなる
とはいえ、私もモダン相手で1ボタンSAでむがー! はあるので、ずるい! と思うのは悪い訳ではない。ずるいのはずるいのです。そこは間違いない。
でも、そこでずるい=悪! になるのがいかんことなのです。悪と断じれる、という精神状態がよろしくない。
世の中正義は当てにはならないですが、悪を叩くのは明確に分かりやすい正義に見えます。でも、それは正義ではなく別の悪徳である可能性もしっかりあります。モダン論争は大体そういう陥穽に落ちているというのが個人的な見方です。
ずるいのはずるい、んだけど、チートとかとは違って、ゲーム中で許容されている話である。そこをどう思うかは自由だけど、悪と断じるのは違うかな、というのが結局言いたかったことです。
詰まる所、文句も言いたいのは分かるんだけど、悪とするのは間違いだろ、という感じですね。まあ、私もよくワンボタン対空がよお! ってなりますが、悪とはしないようにしています。そこはわきまえたいですね?
結局人が増えるのが重要なのですわ
それと、モダンで人が増えたというのはやはり抜きにしては考えてはいけない点であるかと思います。ぶっちゃけ、格ゲーは対人戦できる人が多くいることがそのまま価値になる系統なので、その対人人口が増えて、もしかすると他の格ゲーにも分派していくかもしれないならモダンの存在価値はちょっと今までの格ゲーの施策ではお出しできなかったタイプのやつでは? なのです。
それぐらいの伝播力をスト6が持っている一端は間違いなくモダン操作にあるので、その功績を余は忘れてはおらん。って古参格ゲーオタはバーン様顔しないといけないところです。
結局モダンをどうこう、という時はじゃあお前はモダン以上に格ゲー人口増やしたのかよ。で大体論破可能なんですが、モダンで格ゲーやめた人とかもいるかもなので、そこで一悶着するとこでしょうね。増やしたのは明らかなんだけど減らした方がどうなるかはまだ良く分らんからなあ。そこは反論あるところだとは思いますが。
まあでも、お前モダン以上に格ゲー人口増やしたのかよ。はキラーワードとして使っていいかと思います。
結局、母数を増やした功績が確実にモダンにあるので、そこをゴリ押せば大体論破可能になるかと思います。深く議論するならそのキラーワードは出さずにしたいところですが。勝つ為ではなく対話する為のなら、論破は要りませんからね。
まとめ
「そうねえ。モダン=卑怯=悪の構図がおかしいのであるけどそうじゃないし、そもそもモダンあってもいいだろうってことでいいんじゃないの?」
「そうですね」