対話問題

>http://rakudaj.seesaa.net/article/3130212.html< まずは参照のこと。
で。
私が疑問に思うのは若者の発言の内容よりも、なぜ、老人方は普通に話しかけなかったかです。 なぜ、若者は当然立つものだ、と伝えなかったかです。
こと、高年齢の方は席に座りたい旨を話しかけてきたりしません。 なぜ、若者が立たないのか、座ったままなのかを尋ねようとはしません。
若者に対して、対話を行わない。 またひるがえって、老人に対して、対話を行わない。
その結果がいやみであり、その結果が若者の発言になるのです。 まだちゃんと話そうとしている分だけましとすらいえます。(内容の是非はあるでしょうけれど)
というわけで、これは弱者の問題ではありません。対話の問題なのです。
若者が、「席を譲りましょうか?」と尋ねる方法もあったはずです。
老人が、「席に座らせてもらえないだろうか」と尋ねる方法もあったはずです。*1
しかし双方、それはしなかったわけです。 この辺が一番問題なのではないのかなあとか思うわけです。
どうして話さないのか?
なんか中島義道のおっさんが前に書いてたののそのまんまになったなあ…。 なかなか自分の言葉では表せないもんだなぁ。

どうしても気になるので。
「弱者と立場になって考えてみよう」http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20050430#p4
この言葉にいささかの疑がある。 といっても「弱者を守る」と言う方向への疑ではない。私自身、「弱者の救済」という方向が無かったら、今生きていくことすら出来ていないだろう。(誰が弱者なのか、どれくらい弱者ならいいのかという問いもあるがここではスルー)
では、疑とは?
「〜の立場になって」、はたしてその「〜」とおんなじことを「考えてみ」る事ができるのかと言う事である。 これができるとなると、それは二重の意味で傲慢である。
一つには「〜」と絶対に同じ事を考えるという傲慢である。 世に60億もの人がいて全ての人がすべからく同じ考えにいたると言うことだ。 そんな事があるのだろうか?
もう一つには、もし「そうは思わない」と言った時、「同じ事を考えられないなら、それは駄目だ」という傲慢がひそんでいる。 最初から「〜の立場」と言う名の決まり事を言わなくてはならないのに、違う意見があっても良いように振舞う事を、暗に要求しているのだ。
ゆえに、この言葉にはいささかの疑があるのである。
しかし、なればどのように「〜」を語ればよいのか。
いろいろありそうだが、ひとつに「自分が〜である時に語る」という方法が考えられる。 これはつまり、そうでない時は「〜」を語らない方がむしろいいという事になるのだが、でもそうすると「語る事」すらできない「〜」はどうすればいいのだろうか?
具体的な案が出せないまま、ひとまず終わる事にする。
……どうすりゃいいのかなー?

*1:如何なる容姿であったとしてもです