どうしてゲームの歴史は軽視されがちなんだ?

ゲームの歴史は軽視される?

 ゲームの歴史は軽視されがちではないか?
 色んな歴史言説を見ると、そう思います。
 これが一定のファン層の雑語りならいいんですが、さも「歴史でござい」とお出ししてくるのが一々ちゃんと調べてない。ここまでやられるのは無礼られているのか? と思ってしまいます。
 ですが単にそう思うより、これだけされるなら何か無礼られる要因があるのでは? という視座を立ててみます。
 何故ゲームの歴史は軽視されるのか。どこからそれを無礼る行動が生まれるのかを考えてみたいと思います。

そもそも歴史にいっちょ噛みしたいんだよ説

 歴史、というものに関わりたいというプリミティブな感覚がある人がいるのではないか、というのがまず浮かんできます。
 歴史をカタルというのは、これが結構アガる行動のようです。例えば司馬遼太郎先生の小説で歴史を感じたりしている、所謂司馬史観な人達がいます。ああいう人達はそういう歴史の隙間を埋める行為に驚天動地する訳で、それを俺もしたい、という欲求を持つ人もいる模様です。あるいは歴史を闊達にカタルというのはかなり脳汁が出ることなのかもしれないので、それができる場所を求めているとも言えます。
 そういう歴史にいっちょ噛みしたい層がカタリの対象とするのはどういうところか、というのを妄想してみるに、まず歴史が浅いことが筆頭に上がるでしょう。
 司馬史観に感化されているけど、司馬遼太郎先生のテリトリーには迂闊には踏み入れない。国民的作家、神所謂GOD機関のテリトリーですからね。偶にそっちに踏み込む人もいますが、そういうのは荒山徹先生みたいな一瞬千撃抜山蓋世鬼哭啾啾故豪鬼成な人でないと務まらないので、いっちょ噛みするには難度が高い。
 歴史の浅さで見れば、他にはテレビドラマや漫画やアニメとかもあるんですが、その辺りはその辺りで所謂オタク第一世代が幅を利かしていて、しかもその層が現役なので適当なことを言うと突っ込まれる難所です。
 そこで、ゲームが登場するわけです。
 ここに対する蓄積はまだ50年程度。現代的なゲームとして顕在化するのでは35年程度です。歴史的にはまだ浅い。故豪鬼成にならなくてもやって行けそうに見える。またオタク世代的には第三世代辺りですがこの辺りになってくるとオタク的な権威としてのオタク第一世代みたいな強力なキャラと伝播力を持つ突っ込み役も不在です。なので、入りやすいと目されているのでは? という妄想が出てきます。

ゲームをカタルのは簡単だと思っている人がいるんだよ説

 ゲームをカタルと聞いて、どういうレイヤーでそういうのがされると考えるでしょうか。ゆうて、そのゲームの内容について、クソか否かとかその辺でしょう。
 それならできる! それだからできる! というので、ゲーム批評的なサムシングが生まれることになりますし、実際昔にはそのものずばりの『ゲーム批評』誌も存在しました。
 さておき、そういう訳でゲームの内容、ストーリーや操作の楽しさなど、表面的なことに対する言説というのは現在でも幅を利かせてます。そこだけ見ていけば、ゲームについてカタルのは楽そうに見えるのも無理からぬことではあります。
 But。ゲームには内容以外にもっといろんな側面があります。プログラムなどの技術なとこだったり、会社の都合や運営のことだったり、製作者の葛藤とその表出だったり、謎の宣伝広告だったり。実際の歴史というのが司馬史観で単純化できないことが溢れているように、ゲームの批評も様々な情報を加味する必要があります。
 その雑味を削ぐのが司馬史観なのかもですが、それはさておきゲームの歴史をカタルなら、様々な要因についても触れるか、触れないにしても触れない理由付けが必要です。そこのところが全然共有されていない、というのが一つ要因かもしれないと妄想します。

オーラルヒストリーとか集めるのだるくね? 説

 再びですが、ゲームの歴史はまだ浅いです。これを書くに至った原因の話題に関するスト2の話でも、まだ30年程度しか発売から経っていません。とどのつまり当時のことを知る人が全然存命なのです。ゲームの開発の初期の頃なんてまだ年若い人達が導入されている訳ですから、それで40年ほど経っても、いいおじにはなっていますが十分に話を聞ける。つまり、オーラルヒストリーは全然顕在な頃なのです。
 だから、カタル為にちゃんと話を聞く、ということは選択肢としては全然ありなはずなのです。
 ですが、こういうオーラルヒストリーを聞く、あるいは昔の資料やら情報に当たるというのをゲームの歴史をカタロうとする人は何故か軽視します。大体の場合そういう一次資料にあたっている人いるの? になります。
 なので、オーラルヒストリーを集めるのが大変だからしてないのでは? という邪推が発動します。そりゃ大変なのは大変ですが、歴史をカタルならちゃんとバックボーンを構築するのがセオリー。なのにしない。そういう意味では、ゲームはやはり無礼られているというのがあるのかもしれないと妄想するのです。

ゲームの歴史をカタルにはどうしたらいいか

 いきなり話の筋は変わりますが今読んでいる本で塩崎省吾『ソース焼きそばの謎』というのがあります。これは題の通りソース焼きそばの謎を追う歴史探訪の本です。
 ソース焼きそばの歴史なんて大したもんじゃないだろうなどと、その気になっていたお前の姿はお笑いだったぜ。
 この本の凄いところは、情報を獲りに行くのにためらいが無い点です。ソース焼きそばの起源が大阪のようにあるけど実は浅草発祥ではないか、というのを様々な一次資料、オーラルヒストリーから文書のやきそばという単語をひたすら追いかけて、しまいには小麦粉のその当時の流通具合がどうだったかまでやってその謎を解き明かしていく様は、知的好奇心をガンガンに満たしてくれます。そして歴史を調べるにはここまで手間を払う必要があるのだ、というのを教えてもくれます。
 元々焼きそばについてのblogをしていた著者が、東日本大震災を契機にその歴史を解き明かしたいと思って調査を始めたものなので、10年近い情報収集の果てに『ソース焼きそばの謎』という本が出来上がっています。半年ROMれじゃないですが、ちゃんと歴史をカタルならそれにふさわしい情報収集を怠ってはいけない、と戒めらえる気持ちにもなる一冊です。
 ダイマはさておき、逆に言うとそこまでの手間をゲームなんかに払えないというのがゲームの歴史をカタル人にはあるのかもしれません。所詮ゲームでしょ? くらいではないかと邪推してしまいます。
 ですが、ソース焼きそばの歴史ですら精密にしていけば大きな歴史のうねりの中にあったことがわかるので、ゲームの歴史をカタルのに一次資料を探るのも、実際払うに価値のある手間だとは思う訳です。それがひも解くものが、きっと何かあるはずだと。

というか、だからこそだろうがっ じゃないの?

 ゲームの歴史をカタルにはちゃんと資料を当たったりゲームを支える技術に対する知識など色々な手間がありますが、これらはそこまで古い情報じゃないのがゲームの歴史探訪に対してはありがたい点です。件のソース焼きそばは遡ると明治後期から大正期までいくので、もう存命じゃない人が多くて聞くに聞けないというので四苦八苦したんだろうなあ、というのが本の内容の端々から感じられます。
 そういうのと比べれば、先述しましたがゲームを作った人がかなりの数存命している今というのは、歴史を残す上では相当いいタイミングではないかと思います。わりとNOW! 今しかないのかもしれませんよ。
 歴史が浅い、だからこそ。
 簡単にカタレそう、だからこそ。
 資料集めが面倒、だからこそ。
 ちゃんとしたことをすれば、歴史にきっちり名を残せる部分ではないか。なので、歴史カタリいっちょ噛み程度ではなく、ちゃんと歴史を綴っていけばいいのに、と残念に思ったりしたのです。
 そういうのを昇華したくてこの文章書きました。すっきり。
 ではこの辺で今回は終わります。