己の基準

はてさて、ライトノベル作家の値打ち・第二版を読みながら思ったことおば。
読んでいて気が付いたのは、どうにも自分には「読んで損した」という基準値が存在しないような事である。 詰まり何を読んでも最低限「損は無い」のである。
これにはいくつかの要素があるが大きい二つを上げると、まずひとつに、「買った時点で買う価値があったということである」という考え方がある。 ちょっと言い回しが入り組んでいるので分かる人には分かる様に――つまり分からない人には分からない――言うと、「買うと思った時ッ! その行動は既に完了しているッッ!!」となる。 本を買うという行動は、己の中で半ば条件反射の行動になってしまっているのだろう。 これによって買った後の段階では後悔などしないようになっているのである。
それともうひとつの軸として、「最大限楽しみ尽くす」という部分がある。  つまりどういう事なのかというと、「どんな本に当たろうと、その本にあった楽しみ方を見出す」事。 当意即妙、というと少しごへいがあるけれども、当たるを幸いに読みまくっていたら、どんなものにあたってもどうにか出来る様になったらしい。これはひとつ目から派生して出てきている事は否定しないが、いつの間にかこれ単体で大きな理由となっているようである。
どうもこの二つによって、私は「読み損」という感覚とは無縁なようだ。
これは得な所と損な所を併設している。 質が悪いと言われても気にせず読めるけれど、その分良い本を読む時間が少なくなるのだ。 本と時間のトレードオフというやつである。 けれども、「損」を感じないのですから限りなく得な部分を享受できるとも言える。
これが究極的にいいのか悪いのかは、正直言えばどうだっていい。 己が持った性質がそうであるなら、それに付き合っていくまでなのだから。
はてさて、こんな捻じ曲がった思想って他に仲間がいるのかねえ?