ネタバレ感想 伊藤明弘 『ディオサの首』1巻:及び伊藤明弘カタリ

ディオサの首 (1) (サンデーGXコミックス)
ディオサの首 (1) (サンデーGXコミックス)

 大体の内容「手錠で繋がれた二人の運命とは!」。とある南米で、ある悪徳警官を追う二人。その二人の手には、手錠。繋がれた二人は果たしてどうなるのか。あまりに伊藤明弘節。B級世界重点。でも、面白さはいつも一線級の特S級。それが『ディオサの首』なのです。
 その題名からも分かると思いますが*1、この作品は全体としてB級映画の雰囲気を持っています。命軽やかに行われる銃撃戦こそが、この漫画の持つ最大のお楽しみであり、そういう意味でB級という言葉はしっくりとくるものがあります。
 しかし、B級というのは、単に劣るという意味ではございません。予算枠や時間枠で、Aより少なく、という意味もあります。つまり、時間も金は掛かってない、ということです。金がかかってないなら、時間が掛かってないなら、時間や金のかかっているA級より面白くないか?
 当然、NO! ですよ。それは誰もがなんとなく分かっていることだと思います。そして、この漫画は優れたB級、内容として予算が掛かってなさそうな、しかし、内容の方は大充実の一本なのです。
 まず、伊藤明弘と言えばガンアクション。ここに関して言えば、毎度やる気満開。当たり前だよなあ? というレベルで、大きいアクションのネタから、細かいアクションのネタまでぶっこんできます。
 『ディオサの首』におけるその大ネタは手錠で繋がれた二人による大立ち回りです。主に、銃器担当モニカさんに、カマキリ拳担当=お荷物のアツシさんがくっついているせいで動きは大きいし、的としても大きい、どうする。というのを、しかし言葉で説明しないで絵だけで見せる超絶技巧をぶっこんできます。既に漫画家としてのキャリアというのは、ほぼ確立された伊藤明弘先生ですが、それでもまだまだ旺盛に銃撃戦のネタを持ってくるというそのチャレンジブルさには脱帽するしかありません。もう、好き。
 さておき。
 次にこの漫画を高い位のB級にしているのは、作品の妙な牧歌的雰囲気。ハリウッド特A級作の、どの秒も無駄にしない、という意識高い系と違い、どこかのどかな、ゆるい時間がこの漫画には流れている場面があります。最初の警官のフリをしろ、からのバカっぽい場面とか、途中でアツシさんとモニカさんがトロッコをこいでるとことか、チンピラがやりたい盛りなせいで銃撃戦中なのにモニカさん捕まえて色々やるんだ! って会話しているところとか、どこか弛緩した空気が流れるのです。
 これがいい。昔のB級映画とか見ると、尺の都合でもないのに変に時間稼ぎしている場面とかありますが、あれと同じタイプのやつです。それが作品の雰囲気を、一気に緩ませる。この圧倒的弛緩技術の粋! この作品のB級さ、内容が緩いという意味合いでの、として象徴的なところかと思います。
 最後に、この漫画がただのB級で終わらない、高い位のB級にしているのが、ふんだんに散らばった謎です。特にモニカさんは、何故そんなに銃器の扱いに長けているのか? 何故捕まっていたのか? 何故男から逃げているのか? というかあの男何? と矢継ぎ早に疑問が出てくるくらいに謎に満ちた存在です。
 しかし、その謎はサイドの話。メインは、アツシさんが何故捕まる形になったのか、ということ。敬愛していた漫画家が殺され、その罪を着せられた上に、知り合った人が殺されている。単に、それをした悪徳警官がクスリでラリって殺して罪を着せた。というだけでは微妙に説明しきれていないように思えます。本当に単に罪を着せる為な可能性もあるにはあるんですが、まだ何か隠されているのでは、というあわいがあります。
 そう早口で言いたくなるくらい、この漫画の謎は良い感じに満ちています。A級な内容のものでも可能な話を、しかしあえてB級アトモスフィアで。その意気、粋が堪らないわけですよ。
 お話の方は、追いかけていた悪徳警官に宿を襲撃され、その上でヘリで追いかけられて、という状況に、モニカさん絡みの男たちがやってきて、さあ鉄火場だ! という状態で次の巻へ。隙があったら話を拗らせる、という感じにどんどこぶっこまれてきますが、果たしてこの漫画どこに到達するのか。注視したいと思います。

伊藤明弘カタリがしたいので、ここでする。

 さて、ここからは予定をそのままにして、何故ここまで私が伊藤明弘先生を好きなのか、というのだと思われるものを適宜語っていくので、興味のない人は話の途中だがワイバーンだ!
 ということで、たらたらと語りあかしていきましょう。
 まずどこから話したものでしょうかね。とりあえず、常日頃から思っていた、伊藤明弘先生のヤバさについて語りましょうか。
 そもそも、漫画においてアクションとはどういうものでしょうか。諸賢には色々な一家言があると思いますが、私の場合は、

元来あり得ない

 という判断をしています。
 はっきり言えば、漫画においてアクションは、普通は、存在できないもの。そう考えているのです。
 漫画って煎じ詰めれば、絵であり、もっと言えば静止画です。つまり、元来動いていないモノです。そこに対して、アクションとはその言葉通り、動きですし、動画なんですね。動いているもので、止まっているのはアクションではない。とすら言えると思います。
 だが! しかし! まるで全然! 伊藤明弘先生に対してはその言は通用しないんだよねえ!
 伊藤明弘先生の凄み、ヤバさは、動かない絵である漫画にアクション、動きを与える。そういう異常なテクニシャンである、という点にあります。アクション静画、という謎の言葉を、勝手に林立させたいくらい、止まっている絵なはずはのに、アクションしているのです。そこに対する様々なテク! 生半可では到達できない、匠ゆえの努力! これの凄絶さよ。ヤバさよ。
 この、漫画におけるアクション、というのの一つの到達点として、『ジオブリーダーズ』がありますが、ここで語ると話が逸れすぎてしまうので泣く泣く止めて、その到達点から伊藤明弘先生がどう進んでいるのか、と言う話をします。丁度『ディオサの首』の項なので、それに関する話にしましょうか。
 『ディオサの首』でのアクションに対する大ネタとして、二人羽織銃撃戦があります。片方、アツシさんが特に銃は使えないのに対して、片方、銃器を巧みに操れるモニカさんがおり、それが手錠で繋がれているがゆえに普通の銃撃戦は出来ない。というのに、それでも銃撃戦は出来る、出来るのだ! とその無理を承知で銃撃戦を組み立てているのです。普通に撃ち合うとアツシさんが普通に死ぬので、そこをどうするか、というの解答は是非『ディオサの首』を読んで確認していただきたい。←ダイマ
 その上で。
 その上で、二人羽織であることを活用した小ネタもガンガンと。個人的には二人羽織だからこそできるリロードは細かいけどいいネタだと思いました。その距離ならそうする! という納得がちょっと言説しづらいレベルで高いんですよ。ヤバイ。
 さておき。
 この、普通に考えると超お荷物な設定で、単なる銃撃戦では、満足できねえぜ! と不満足さんな伊藤明弘先生は一人自分を追い込んでいます。誰もやれと言っていないのに、自分から! 銃撃戦のマエストロの評は今でも健在であるのがよく分かる様態ですね? ヤバイの分かるでしょ?
 ただのアクションでも、既にコマ割りから、その内容にどういう配置にするか。どこを抜き描きして、どこを省略するか。どこを続けて、どこを止めるか。そういうのが巧みに組み込まれた高次のアクション作画なのに、そこに更に面倒なアイディアをプレゼント! それでもやってけるんだぜ! という、頼んでもいないのにチキンレ―スしている。それが伊藤明弘先生のアクションなのです。何度も言いますが、俺はもうヤバいと思う。
 さておき、なんかこの項を終わらせる方向が見えなくなってきたので、ここでいきなり断章とします。まだ自分の中でも、伊藤明弘先生の良さに未明な部分がある、と分かったので個人的に収穫です。
 とにかく、伊藤明弘先生は凄いんだよ! ヤバイんだよ! と言いつつこの項を終えたいと思います。

*1:サム・ペキンパーガルシアの首』がするっと出てきますね?