文章のホラーは弱いか、という話からの底抜け大脱線

誰が為に

 なろうでホラー書くのは弱い。何故なら、という話について、思ったことを脱線しながらやっていこうというコーナーです。色々自分のポジショントークの側面が強いですが、そもそもなんで文章のホラーが弱いとされるのか。
 というので例示された音と絵という理由が、個人的に腑に落ちないというのがあるので、その腑にカカッと落とす為にこの項を書きます。ツイートしようかと思いましたが、長くなりそうだったのでblogします。
 そして、これは自分の理解の為の覚書みたいなのなんで、大体分かりにくいですからカラダニキヲツケテネ!
 さておき、それではいってみましょう。

それって文章弱者じゃんよ

 ホラーが文章に向いてないというツイートの原盤はどこにあるか分かんねえので、記憶を頼る点にまずご理解いただきたいです。ざっくりしか探してないからか?
 さておき、ホラーと小説の相性の悪さとして、絵と音が挙げられていましたが、ここでツイッターなどを見ておる向きにはワッザ!? となるかと思います。そうです、自分は音とか絵とか頭の中で励起するぞ!? というのがあるのです。
 この点に対しての私見として、絵とか音とかがあるのはかなり属人性が強いのではとも思います。なので、件の呟きも、見えない聞こえない人もいる、という現れかもしれません。
 ちなみに私は明確に音や絵は見えませんが、おぼろげにそういうのが浮かぶタイプです。なので明確に絵や音が出る、という人にはえー、本当にござるか? という疑惑は持っています。
 とはいえ、おぼろげでもイメージが出るところは出る。例えば、甲田学人『Missing』の5巻のアレとかは、イメージがぼっと出てきて怯えました。特に音はなかったですが、むしろ音とかない平素な空気でそれが起きた、というのが頭の中に励起したのです。
 そして成田良悟デュラララ!!』でそれを使った拷問が出てきてまたイメージが励起してaieeee!!ってなりました。だから文章にはそういうイメージ喚起を受けるので音や絵が見える人もいるのは理解可能です。
 そんなわけで、音や絵が見えない、という点に対しては理解できつつも、でもおぼろげでもそういうのが見える向きとしては、そういうのがおぼろげでも出ないのは、文章弱者、あるいは読書弱者なのでは? という疑念を持つにいたります。
 見えて聞こえれば強者なのか、という話になると、そっちの方が、強いだろ。となります。
 普通には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。これは”強い”ですよ。今ある理以外の理が分かるって強者ぽくないですか!?
 というのは冗談として、ただ文章を読んで文章だとしか理解しないより、その羽ばたきが分かる方が上を取れる、という方が分かりやすいでしょうか。文字以外の何かをそこに感じれるなら、文章に対する感受性が高い訳で、高いものがあるなら強いのです。ゆえに見える聞けるを文章強者とする、としても罰は当たらないかと思います。

それってエンタメ弱者……、ってコト!?

 さておき、文章に対して色々な感覚が浮かび上がらないのを文章弱者としましたが、これはもう一段話を進めるとエンターテインメント弱者、エンタメ弱者にもなります。
 文章メディアは色々ありますが、エンターテインメントもその一角です。その文章メディアが絵や音がついたアニメや実写というのが存在するのですから、つまりそこには文章を映像化した人がいる、ということです。
 これに対して映像化できない文章弱者、文弱はその原点を見ても映像が浮かばないがゆえに、そういう仕事にはありつけないのです!
 流石にそこまで言うといき過ぎですが、映像化を待たないと文章が楽しめない、というレベルになってしまいかねません。だが、それはあまりにも弱くないかと思う訳です。
 流れとしては、自分で出力できない=誰かの出力したものでないと理解できない、という形になるからです。
 誰かからの出力を待たないと、自分のイメージが持てない。親鳥に餌を運んでもらわなければ死んでしまう雛ですよ。これが弱者でなくて何が弱者でしょうか。
 そんなわけで、文弱はエンタメ弱者に繋がる、という無茶なこともそこまで理がないわけではないのです。

エンタメ弱者の何が悪い

 ここでそう開き直るタイプの人がいるのか、というのは想定しようがないです。いるかもしれないしいないかもしれない。それでもそういう人に何が悪いかというのを伝えるとすると、その人はもしかすると完全に想像力が欠けているのでは? というダイレクトなのを出してしまいます。
 とりあえず絵や音が聞こえるのが絶対正しい、とまではいいたくはないんですが、それでも自分の中に何かがあり、それを文章を読むことでそれを浮き立たせるという行為、つまり想像力ですが、それがないのはいただけない。
 想像力は文章のホラーには特に必要ですし、あるいは絵や音が付く前の映画シナリオとしてのホラーもそれがないといけないのです。それはどういう立場であろうと、つまり読者なのか作者なのかですが、とりあえず基本としてあり、それを文章にから読み取れるスキルでもあります。
 映画でも、映像や音で怖い、というものは確かにありますが、それはそういうのをどう怖がらせるか、という下敷き、文章がある。
 そして映画でホラーが綿々と作られているのは、実のところ映像や音を高価にしなくても怖いものは作れる、という部分があるからです。一番簡単なので、物陰から出てきてびっくりさせる、という古典的手法すらやりようによってはきっちりホラーに出来ます。それがホラーの文法であり、シナリオであり、つまり音と絵は後からつけられる世界がある、ということです。
 まあ、撮りたい絵を撮ってストーリーをやっつけで、という手法も古くはあったかもしれませんが、今時ちゃんとホラーするならシナリオを、どこを怖がらせるかという設計図を、文章化しないといけない。それを見て、これは怖い、とならないのでは、ホラーは出来ないのではないか。
 詰まる所、映画などの映像ホラーでも、まず文章ありきであります。ゆえに文章はホラーの苦手部分、というのは誤りではないのか。という風に思う次第です。

書店弱

 この文章を書くに至った文章、現在ないっぽいですが、そこで反論として書店で並んでないやん、というのがあったそうですが、それはそれでやはりエンタメ弱者です。もっと言うと書店弱者です。
 ここで悲しい、悲しい話をしよう。現在の書店ではホラーはフェアがあんまりないし、コーナーを作られることもそんなにない。特に我が郷里では。
 そういう、目立つ面に広くホラーが置かれることはそんなにないです。最近、そういうのが少し励起してきてミニコーナーがあるとこもありますが、それでもそれは人文が強いか、コーナー作りが長けている本屋です。大体の本屋、大型本屋でもそれは無いのです。
 そうでありつつも、ホラー系はちゃんと時代時代に足跡を残しています。今なら『変な家』シリーズとか『意味がわかると怖い4コマ』とかですね。
 面で出てなくても、売れているホラーというのは常にあります。そもそも、映画でも漫画でもホラーが途絶えない時点で、ホラーというジャンルが息が長くしぶといもの、といえるでしょう。
 つまり、どういうことだってばよ! ですが、つまり本屋でフェアしてない、というのが売れてないという理由にはならないのです。ひっそり、しかししっかり売れる本もあるのです。そういう部分に対して、書店に対しての知悉が圧倒的に足らないといっていいでしょう。つまり、それが書店弱者。書店弱なのです。
 とはいえ、最近の書店の状況を見れば、売れているのが面でされている、という短慮は致し方ない面はあります。
 私の郷里でも本屋は結構画一化しており、似たような本を似たように押す、という形が横行しています。それでも頑張っている本屋もありますが、それも大型だからできる仕事という側面が強い。
 中型から小型本屋は大体なくなった現在では、特異なことをする本屋には飢えているのが現状です。なので、書店についての知悉を積めないところも多いかと思います。
 とはいえ、だからといって短慮の山田していい理由にはならない。せめて知識がなく感覚や勘の類だと言っていれば、そういうとこもあるよねー、で済んだ話かと思います。

どうでもいいことの教養

 この辺の書店への知悉は、いってしまえばどうでもいい話ではあります。そんなの要らないだろ、と思われること、ですが、そういうどうでもいいことこそ、教養が出てきます。
 この書店に対する知悉とか、人生で役に立つかというとあまりに時限的、今の時代だからこうなっている、という知識で、また時代が変わればすぐに無用のものになります。
 ならいらないじゃね? ですが、そうは問屋がいかんざき。そうやっていらないとしたから、今回の話で隙になっている訳です。どうでもいいことのようで、実際どうでもいいんだけど、だからこそ教養が光る、というのがどうでもいいことの教養なのです。
 意外と自分が知っているどうでもいいことが人の役に立つ場合もあるし、そもそも自分の為になる。そういう細かい教養というのが、今の時代必要なのではないか。という変な話になってきたので、そろそろ戻します。

問:そもそもなんでホラーと小説という百合の間に挟まる男したのか? 解:分からん……

 ホラーと小説の相性が悪い、という話はホラーの小説が根強くある、最近だと甲田学人先生が『ほうかごがかり』でご帰還されて界隈がわいわいしている段で、あれれーおかしいなーと江戸川声になります。そこに、音や絵、という映像ホラーと比較している時点で、映像ホラーも大体シナリオは文章である、という地点を見れば比較の仕方がおかしいと感じられます。
 つまり、文章に感じ入れなければ、ホラーは生まれない、まであります。一応そうではない方向性、口伝タイプとかもありますが、大まかな現代のホラーは文章から生まれているとすら言っていい。
 そう考えると、何故ホラーと小説が相性が悪いという話が出たのか、という根本が気になります。というよりは、そういうのが分からないくらいの知識のとこにいっちょ噛みしたのか、という方が気になります。
 そういうことを言えるくらいに自分は知識があるという見栄だったのか、あるいは本当に知っていると思っていたのか。その辺は謎です。分からん……。
 というか、他人の好きなことに対して攻撃するつもりはなかったのだろう、とは思うんですが、ホラージャンルの小説に対して全然知悉してなかったがゆえにまろびでたのが、今回の話だったのかなあ。とか思ったことをまとめる感じで今回はここまで。
 したらな!