ネタバレ?感想 野上武志:原作樽見京一郎 『オルクセン王国史』1巻

オルクセン王国史~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~(ノヴァコミックス)1
オルクセン王国史~野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか~(ノヴァコミックス)1

 大体の内容「白エルフ、許すまじ」。ある日、突如として白エルフから殺戮を受けることになったダークエルフ。その一部族の族長、ディネルースがオークの王国の王、グスタフに助けられることから、この漫画は始まります。白エルフに報いを与える為に、ディネルースはグスタフの配下になるのだが……。
 そこから、オークの王国の文化具合や、王のグスタフがどのような男であるか、復讐をどうするのかとかやっていくのですが、この部分が元にある原作小説とアトモスフィアが全然違っています。ウマスが全然違う。
 原作小説は、言ってしまうと衒学的。色んな知識からこの作品の、オルクセン王国についてどう書くか、という流れを持つ話であり、旺盛な知識から出る理屈の味わいが大変強いのです。オルクセン王国の食料事情とか、鉄道の戦時の使い方とか、グスタフの性質の話とかそういうのが結構紙幅を取っています。
 その部分が鼻につく人もいるでしょうが、逆にこれはこれで大変味わい深いという人もいるでしょう。
 ですが(ハリウッドザコシショウ)。
 漫画の方はそっちの方をマジかなぐり捨てんぞしております。その部分がない訳ではないのですが、小説版の微に入り細を穿つ語りとは違って、そういうのはある、だからこそだろうがっ。とコミックマスターJさん顔で、そこはあるけど深くは詰めないですよ、というさらっとした味わいになっています。その衒学的部分が漫画の色々なとこに滲みでてはいるんですが、そこを語ったりはしません。
 衒学的なやつが肝な作品の衒学を無視されたら面白くないんじゃないのか? と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そういうのを無視した、だからこそだろうがっとコ(略)。
 そもそもコミカライズするというのはどういうことか。それは絵があるということ。画があるというとこと。そこに無駄に情報を足し過ぎると無駄ァ! というのが分かっているがゆえの、そこはあるが、俺が語るとこではない! ってする。そこがあることは匂わせつつ、全く語らないという手管をしてきます。
 その位置がいいッ! その位置がベストッ!!
 という謎の発言が出るくらい、衒学的な部分はベースとしてはありつつもほじくらない。その部分は魅せれるなら漫画として魅せる、というのをやっている訳です。
 じゃあ漫画版は何が見所なのか、というと、絵として見られることによる、人物の細かい所作です。小説版では全体的に重め。虐殺とかの話がある中から始まるので、どうしても読み手としては重く見てしまうところを、コミカライズしたことにより細かい所作を出したり、コミカルに崩したときっちり魅せてきます。そしてディネルースさんが可愛いのもあります。所謂百面相するディネルースさんが可愛いです。可愛いは七難隠すって言いますもんね。
 さておき、それがこの作品の重めの雰囲気にいい感じに一拍入れてくることで、大変読みやすくなっているのです。
 他にはディネルースさんが最初に見た、白エルフがダークエルフを虐殺しているところとか、小説版ではなかった部分をカカッと増量していたりします。小説版ではそういうのなしでサクッと終わった序盤を、ちゃんと見せる必要がある。と舵を切った野上武志先生の慧眼はとんでもないです。実際、そういうのがあったというのが画として見せられることで、何が起きているか、というのが飲み込みやすくなっています。そこが小説版で弱かった部分だったのもあるので、マジいい案であると言えます。
 そういう感じで、衒学的な部分を控えめにしつつ、情緒面を重点しているのが漫画版『オルクセン王国史』と言えます。むしろ漫画版は再構成版『オルクセン王国史』とも言えます。
 だから、これから小説版『オルクセン王国史』に入ってもいいし、逆に小説版からこの漫画版に入ってもいい。というか、お互いがお互いを補完する関係性を持っているので、どっちも手に入れたて楽しむといいや! と提言して、今回は終わりといたします。