格ゲーの強さは愛だ

ベルカ、吠えないのか

 岩崎夏海&稲田豊史『ゲームの歴史』で格ゲーに対する認識が非常にもにょった為、
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 と、二回にわたって文章を書きましたが、まだ燻っているとこがあり、それを書かないと一歩も前に進めない……。と谷仮面状態なのです。
 ここは俺が俺である為に、格ゲーについて無駄な語りをしてしまおうと思います。
 覚悟はいいか。俺は出来てる。(そりゃね)

周回軌道を辿る

 格ゲーにおいて「強い」という状態は常に最上位にあることです。「上手い」も近しい言葉ですが、それ以上に「強い」がある。この「強い」を求めるが為に、人は格ゲーをするように思われているし、実際それは是であります。
 なので、格ゲーを語る時に強くないと楽しめないんだろ、というのは昔から幾度となく下される断罪の言葉でした。事実、格ゲーは「強い」が党是であるので、不服はなかった。おおむねその通りだと認識していた。んですが、それも仏の顔も三度までという名台詞を知らないのかよ、となるのが『ゲームの歴史』での雑語りでした。
 普通のゲーマーが思うくらいなら、別にそうだね、ですが、仮にも歴史を標ぼうするのにその部分が粗雑だというのは、マジぶち切れ散らかして、この腐れ脳みそがー! となるのもしょうがないと思っていただきたい。
 ともかく、格ゲーにおける「強い」に対する言説、強くないと楽しめないというのは周回軌道を辿っている、とも言えます。ゲーマー内でも外でも、似た言説は繰り返される。そういう仕組み、とすらいえるかもしれません。

「強い」と楽しめるか?

 前回前々回のエントリーで強くなくても格ゲーは楽しめるという話をしていたつもりです。とにかく格ゲーは「強い」に向かっていくのも楽しいし、強くなくても楽しめるところはある、というのが言いたかったりしました。
 ですが、別の視点もあります。つまり、実際に「強い」と楽しめるのか? という視点です。
 シン! 狂ったか!?
 といえるような無茶な視点かもしれませんが、やもすると「強い」が、格ゲーでは特に独り歩きするので、そこに対するカウンターをかましておきたいという考えです。
 さておき、格ゲーにおいて「強い」は重要ですが、その「強い」にも限度があります。端的に言うと、「無敵」まで行くと格ゲーを楽しむことが出来なくなります。
 これは大@nani&吉雄もこもこ丸まさお『ゲーミングお嬢様』を引き合いに出すと分かりやすいんですが(わかりにくい)、作中最強キャラの一角、東台院飛紀子様くらい「強い」と、つまり「無敵」に近くなると、格ゲーは虚無るところがあるのです。
 何故か。対人戦は一人では出来ないからです。迫稔雄『バトゥーキ』の言葉を借りるなら、「喧嘩も一人じゃできねえんだから」、ということです。戦える相手がいないと、対人戦は虚無るのです。

「強い」と何か

 よくよく対戦ゲーは勝てば楽しい、と言われます。実際においてほぼその通りではあるのですが、そこに幾ばくかの問題も含まれています。
 先述の通り、対戦は一人では出来ません。そして敵がいないほど強くなってしまえば、当然戦いが作業になってしまいます。つまり虚無る。
 勝てば楽しい、というのは一つの解ですが、一つの解でしかないのです。ゆえに必ず勝てる試合を楽しめるか、という問題に行きつくのです。それが楽しい、という人はそういないのではないか。そう感じます。まあここは初狩り問題などもあるんで、憶測ベースですけども。
 詰まる所、負ける可能性がある方が対戦は楽しいのです。ここが格ゲーの「強い」を語られる場合に抜けやすい部分ではないでしょうか。
 この部分は、某フレイザードの名台詞と真逆です。格ゲーマーは勝つのが好きなんじゃなく、戦うのが好きなのです。負ける可能性があるのが、むしろ楽しいのです。

翻って「弱い」について

 「強い」から面白い訳ではない、という話をしてきました。強くても、相手がいないと対戦は出来ない。詰まるところ、格ゲーで「無敵」なのはつまらないのです。
 「強い」が面白いと限らないなら、「弱い」もつまらないとは限らない。上記リンク先でも言及しましたが、更にもう一段、「強い」人に当たって「弱い」人はつまらないか、という派生の話をカカッとしていきたいと思います。
 「強い」と戦って「弱い」が負ける。至極当然の流れです。理の当然とはこのことです。この流れが面白くないか、というのには、そうでもない、という解もあるのを知っていただきたい。実は負けても面白いのです。
 ここんとこが中々理解されないゆえに、強くないと面白くない無限提起編になるんですよ。いいですか、対戦は負けても楽しいんです! 悔しいのも楽しくないのもあるにはありますが、それでも戦った後は楽しさもあるのです! それがなきゃやってません!
 「強い」人が対戦するのも、負けるかもしれないから対戦するんです。必ず勝てるから対戦する訳ではない。負ける可能性、あるいは負ける為にすら、対戦をするのです。まあ、勝つ為に対戦する人も当然いますから、一概には言えないとこはあるんですが、でも必ず勝てるからやる、というのはそんな大きい部分ではないのだと、ここで主張したいのです。

強さは愛か?

 必ず勝てる相手と対戦しても楽しくない、と先述しましたが、相当「強い」人はかなりの確度で勝てます。初心者相手なら、「無敵」かもしれません。
 なので、「強い」人は初心者と戦うことはそうありません。ここは所謂ゾーニングと言えます。初心者狩りでないなら、大抵の「強い」人と初心者の対戦は起きないものです。現在の格ゲーはちゃんと腕前別の区切りもあるのが多いですから。初心者狩りはあるので、絶対ではないですし、言及元の時代が『バーチャファイター』の頃なのでまあゾーニングない頃よね、ではありますが。でも『鉄拳』のガチャプレイで上級者倒せるから楽しいとか言ってるからなあ。
 さておき。もうちょい「強い」人と「弱い」人に実力差がない場合は? そうなれば、「弱い」人でも勝てる可能性が見える、ということですから楽しいラインです。「強い」人でも処理で済むことはない訳で、つまり楽しい。win-winなのです!
 そもそも「強い」人と戦いたい、と思うくらいに強くなっているなら、既に格ゲーの薫陶を受けまくっている状態なので、勝てないという事実に対して面白いと思ってしまうよう訓練されていますから、そらそうよ、だったりもします。「弱い」側の人にとっては「強い」側の人との対戦は負けるにしても価値がありますから、そこが分かってくるくらいなら、もうどっぷりなので論を俟たないですね。
 「弱い」側にメリットはある。でも「強い」側の人にメリットはないのでは? ですが、これが中々面白いもので、戦って相手を育てるという感覚が生まれてくるのです。人にも寄りますが、攻略には相手に伝えるのが一番な時があるのです。自分の攻略の為な部分もある訳です。
 そして育てれば、当然自分に勝つようになるかもしれません。それがいいのです。相手が自分を負かすくらいに強くなるなら、それは対等に戦える相手が増えるということ。負ける可能性が強くなるということですから、その可能性があるなら、師匠役になる、というのも楽しいのです。「強い」というのが楽しさを生むというのは、単純に勝つことより、こういうところからなのかもしれません。

強さは愛だ

 つらつらと語ってまいりましたが、結局「強い」というだけで単純に格ゲーが楽しい、という地平はあるのは認めつつ、でも「強い」だけじゃあ楽しくない、というのを例示出来たと思います。
 本当に、よくよく対戦ゲーは「強い」ならいいみたいな言説は先述通り無限に同じことを言及されるので、そこに対するカウンターになればいいな。とは思うんですが、でも「強い」と楽しいからなあ。という部分もあります。
 元々の言及も、よく考えてないのが無限言及編の一角だというので分かるところですが、理解出来ない話ではないんですよ。「強い」人に挑むのは勝てないから面白くない、という雑なくくり方ですが、その点も事実ある訳ですから。勝てないからつまらない、というのは理が全くない訳じゃない。
 でも、対戦ゲーはそれだけじゃない、という話が結局したかったので、前回前々回と連なる話でそれが出来たかな、と思うくらいには書きましたから、さっぱりしました。結局さっぱりしたいが為に書いてた文章なので、その任はこれで終わり、という形です。本当に鬱憤溜ってましたね……。
 ということで今回はここまでです。したらな!